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事例3-1:アマモ場の再生(岡山県備前市日生町)“生物多様性”と現場をつなぐ事例集

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[3]アマモ場の再生(岡山県備前市日生町)

事例3-1:海に種まくひとびと―25年間に7千万粒(前編)

■日生の海の自然と漁業

リアス式海岸が切れ込む日生漁港の一部。左端に漁協の建物が見える。

日生漁協の建物。

五味の市の外観。


五味の市に並ぶ、底引き網でとれた瀬戸内海の幸。

その昔、とはいっても昭和30年代ごろまでのこと。日生には、山の上から魚影の色を見て、海上の船に旗で合図を送り魚群を囲い込む漁法があったという。山はその名も“色見山”と呼ばれた。海の水と魚の群では色が違う、そしてアマモが生い茂る藻場(もば)もまた色が違って見えた。「海には3つの色があったんや」と、老漁師は語る。

日生周辺の海は遠浅で、しかも島と入り組んだ湾が閉鎖的な海域を形作っている。浅く穏やかな海には陽光がふりそそいでアマモが茂り、命がわきかえる豊饒の世界だった。

「日生千軒漁師町」といわれ、日生は古くから海を生業に成り立ってきた。江戸時代には参勤交代の水先案内を務める「加子浦」に指定され、見返りに漁業の優先権が与えられていた。新種の気鋭にも富み、新しい漁法を編み出しては瀬戸内海はもちろん、九州や東海地域にまで伝え広めた。また、明治から大正期にかけては遠洋漁業に進出した歴史もある。

日生町漁協は、日生本土、鹿久居島(かくいじま)、大多府島(おおたぶじま)、頭島(かしらじま)、鴻島(こうじま)の漁業者で構成し、正組合員は100名ほど。小型機船底びき網漁業、小型定置網漁業、刺網漁業のほか、ノリ、カキなど養殖業も盛んだ。

環境への意識が敏感で、海洋ゴミ回収を底びき網では1965年から、定置網は79年からと非常に早い時期から始め、漂着ゴミも含め持ち帰るよう徹底してきた。また、高度経済成長期以降の開発を、日生の沿岸では漁業者が波打ち際で防いできたことも無視できない。日生周辺の島で、原子力発電所、火力発電所の建設計画やリゾート開発計画が浮上するたび、漁師たちが真っ向から反対して中止に追い込んできた。そのため日生は、瀬戸内海屈指の遠浅な海域にもかかわらず自然海岸が多く残されていて、今ではそれが地域の誇りになっている。

近年では、漁業と観光の融合に成功したモデルとして脚光を浴びている。05年に、新鮮な魚介が安く買える直売所「五味の市」の施設拡大にあわせバーベキュー施設も整い、休日には1万人がおしかける観光地だ。

五味の市は、底びき網漁のおかみさんたちの浜売りが起源。観光客でにぎわう現在、底びき網漁の漁獲は100%すべて五味の市で売られるほか、冬季はカキが出回りいっそう活気づく。周辺の島での海水浴、釣りなどのレジャーと民宿経営もさかんで、自然資源と漁業をいかした地域づくりが進んでいる。


■浅い海の自然に密着した“つぼ網”漁

本田和士組合長。その人柄を評して「瀬戸内海の良心」と呼ぶひともいる。

25年前、アマモの重要さに初めて気づき種をまき始めたのは、“つぼ(壷)網”と呼ばれる小型定置網の漁師たちだった。日生町漁業協同組合・組合長の本田和士(かずお)さん(74)もそのひとり。藻場をよみがえらせる取り組みを牽引してきたリーダーだ。

本田さんは、明治6年生まれの祖父に可愛がられ、夜はひとつ布団で寝物語を聞き、昼には懐に抱かれて海に出て、物心つく前から漁の道を仕込まれた。祖父が伝授したのは、漁場が限られているため長男だけが受け継ぐことが許される、つぼ網漁だ。

つぼ網漁は、水深2、3mから深くてもせいぜい8mぐらいまでの浅い海で、家族単位で営む。岸辺から沖へ向かって道網(みちあみ)を張り、その先に竹竿を立てて仕掛けた袋網へと魚を誘い込む。魚の習性を利用した“待ちの漁法”だ。

本田さんに祖父は、海と漁のあらゆることを教えた。天気の予測、海の地形、潮の流れ…。藻場の話もそうだ。

「祖父からは『藻(アマモ)の生えているところをよく見て覚えておけ』といわれました。櫓を漕いで通りながら何年もかけて色々と教わりましたわ」

光合成で生きるアマモは透明度が高いと5mの深さまで生えるが、ふつう3mが繁茂の境だという。海底の地形と水深の目印であるアマモの生え際を、漁師たちは“ダンカバチ”といった。

「春に水温がだんだんに上がってくるとな、沖から魚が産卵のために藻場に上がってくるんや。ところが、上がるときは潮の流れの中心を通るからつぼ網にはあまり入らん。これが産卵して体調をととのえてまた沖に出るおりには、ダンカバチに沿うてそーっと出て行くんや。“出魚(でいよ)”いうてな、魚は必ず沖に出て行くときにつぼ網に入るんや」

沖からの回遊魚は、サワラ、マナガツオ、タイ、サヨリ、コノシロなど。地つきの魚介ではクルマエビ、クマエビ、ヨシエビなどのエビ類に高値がつき、その他シャコ、カニ、アナゴ、メバル、チヌなども入る。魚にストレスがかからず傷もつかないので、つぼ網の魚は高く売れた。昭和30年代の最盛期には、30軒で約150カ統(セット)の網をかけていたという。

つぼ網の漁師ほど沿岸の海を知り尽くしている者はいないと、本田さんはいう。

「つぼ網は1年中、毎日漁に出るのが仕事や。毎日必ず網を上げに行かなならん。朝3時ごろに出て7時にいったん戻って魚をおろし、そのあと網を上げに行って干し場に広げて、ゴミをとったり繕いをしたり。で、夕方また網を仕掛けに行くんや。とにかく1年間毎日同じ渚に通い続けて、1日中海のそばにおって海の変化を見ているわけです」

しかし、沿岸の海を知りつくしたつぼ網漁師たちでさえ、じつは海の生態系とアマモの関係に全く気づいていなかった。それどころかむしろアマモは漁の厄介者だった。

船の櫓やスクリューに絡みついては航行を妨げ、千切れ流れては網に大量にたまって漁師を泣かせる。アマモを目の敵にして、漁師たちは刈り取り抜き取り駆除さえしていたのだ。


■厄介者から、海の命の拠り所へ

高台から望む、鹿久居島。カキいかだが浮いているのが米子湾。

漁師たちがアマモの役割に気づいた直接のきっかけは、昭和50年代に始めたクルマエビの種苗放流だ。しかし、あとから思えば海の環境変化はそのもっと前から進んでいた。

本田さんは当時を振り返る。

「昭和40年代には水俣病や公害が出て、沿岸はコンビナートばー(ばかり)になって、魚はとれんようになっていた。ところがおかしなもので漁師は気づかん。なぜなら、漁は少ないけれど値が上がっていたから、収入が変わらなかったんです」
さすがに沿岸の観察者であるつぼ網漁の漁師たちは、藻場が急激に減ったことには一様に気づいていた。しかし、櫓やスクリューに絡むことなく楽に海に出られるようになり、網につまった葉を取り除く苦労もなくなったため、かえって喜んでいたという。

ところが昭和50年代に状況は一変する。輸入の影響で魚価がガタッと落ちたのだ。漁師たちはあわてた。安値なら量で稼ぐほかない。ちょうど全国的に栽培漁業が隆盛を迎えつつある時代だった。つぼ網漁師たちは、岡山県玉野市で人工生産が始められていたクルマエビの種苗にとびついた。

「日本の漁業技術はここまで進歩したんやなー。これで漁獲が増える」

そんな漁師の期待はつかの間だった。稚エビをまいてもまいても、いっこうに漁獲に結びついてこなかったのだ。

「なんぼやってもあかんのー」

10年近い年月があっという間にたち、19軒にまで減ったつぼ網組の漁師たちは、ことあるたびに額を寄せ合っては悩み、考え込んだ。ある日、ひとりの漁師がぽろりといった。

「藻がなくなったせいやないか?」

本田さんは盲点を突かれた思いだったという。

「まさかアマモとは気がつかなんだ。しかしよく考えると、最大の変化は藻場がなくなったことや」

そして直感的に理解した。稚エビをまいても隠れ場がなくては魚のえさになるだけだ、藻場は命の拠り所だったんだ、と。

岡山県の調査では、1940年代に日生周辺のアマモ場は590haもの広がりがあった。それが1985年にはわずか12ha、ほぼ壊滅状態だった。かつて色見山から眺めた3色の美しい海は、藻場も魚影も消え、濁った海水ひと色の寂しい風景に変わり果てていたのだった。


(取材・執筆:大浦佳代)


この特集ページは平成22年度地球環境基金の助成により作成されました。