一般財団法人 環境イノベーション情報機構

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エコチャレンジャー 環境問題にチャレンジするトップリーダーの方々との、ホットな話題についてのインタビューコーナーです。

No.010

Issued: 2012.10.05

中野良子オイスカ・インターナショナル総裁に聞く、国際協力と環境保全の取り組みの歴史

中野良子(なかのよしこ)さん

実施日時:平成24年9月5日(水)16:00〜16:40
ゲスト:中野良子(なかのよしこ)さん
聞き手:一般財団法人環境イノベーション情報機構 理事長 大塚柳太郎

  • オイスカ・インターナショナル総裁、公益財団法人オイスカ会長、公益財団法人国際文化交友会理事長。2009年勲章(旭日中綬章)受賞、1999年マレーシア国王よりDATUKの称号授与ほか。著書に「アジア発、地球へ」(国際開発ジャーナル社)、「凛として、生命」(清流出版)など。
目次
発展は大事だけれども、物質面だけ、経済面だけが発展したのではまずい
精神論を話していても、それだけでは「物」が生まれてこない
植林の活動もすべて、現場から出てきた発想でした
国が違えば言葉も違いますし、文化や宗教も違います
「志ありき」でスタートしたオイスカの活動、これからも「くじけないで」やっていきたい

発展は大事だけれども、物質面だけ、経済面だけが発展したのではまずい

大塚理事長(以下、大塚)―  本日は、EICネットのエコチャレンジャーにお出でいただきありがとうございます。中野さんは国際NGOのオイスカ・インターナショナルの総裁など、多くの職務につかれて、アジア太平洋地域の環境保全あるいは農村開発のために活躍されておられます。今日は、途上国における植林などについて、多くの体験をもとにお話しを伺えればと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
早速ですが、オイスカの活動の歴史について、中野さんご自身の経験を踏まえてご紹介いただけますでしょうか。

中野さん― 昨年、2011年はオイスカ創立50周年を迎え、今年は51年目ですから、語れば大変長い話しになってしまいます。

大塚― 創設のころは、日本でNGOの活動もめずらしかったのでしょう。

中野さん― NGOという言葉も日本にはありませんでした。国際協力という言葉もまれでした。創設が51年前ですから、昭和36年のことですが、それに先立つ昭和20年代は日本自身が戦争の廃墟の中から立ち上がろう、自分たちの食糧を含め、復興していこうという必死に生きた時代でした。20年代も末頃から日本が目指したのは経済発展でした。経済発展に焦点を絞ってまっしぐらに走り出したときに、創設者の中野與之助(中野良子氏の父)が「待った」をかけた形です。発展は大事だけれども、物質面だけ、経済面だけが発展したのではまずいと。物質面と心の面が車の両輪のように相調和しながら進んでいかないと、世紀末には車がひっくり返ってしまうと言ったのです。それは日本に対する警告でもあったのですが、人類世界全体の問題として世界にも発信し、それを実行に移したということです。
今思うと、そのとおりに進んだという面も強く、環境問題、それに対するエコの活動が重要になっています。地球上のすべての人びとが、解決するための道を切り拓いていかなければならないところにきたと痛感しております。

大塚― オイスカの活動は、戦後の日本が変わろうとする時代に先を見越したもので素晴らしかったと思います。国際的な視点、国際協力、とりわけ途上国に協力するという視点は、どのようなところから出てきたのでしょうか。

中野さん― それまで、欧米が世界を引っぱってきたと思います。科学の世界でも、政治や経済の面でも欧米が引っぱってまいりました。ところが、戦後の世界を広く見渡すと、アジアには植民地から解放され独立を勝ち得た国が多くありました。まず、インドがそうですね。ほかにも、マレーシア、フィリピン、インドネシアなど、たくさんあります。国連に新たな独立国の旗を並んで立てる場所が足りないという状況でした。それまでの50数か国の旗と旗の隙間に新しい国が旗を立てたのです。こうして多くの国は植民地のくびきから離れることはできましたけれども、国民を十分に食べさせていく力がない状態でした。世界の国々が援助国と被援助国に分かれ、援助を前提とする世界の構図がつくられることになったのです。
そういうときに、「物質面での発展だけではないぞ」という発信をしたことになります。ちょっと厳しい発信だったかもしれませんが、意外と途上国に受け入れられたのです。精神文明という意味では、インドをはじめとして、仏教国のスリランカ、タイ、ミャンマーなども伝統的にしっかりした土壌をもっています。とはいえ、実際に食べていくことに汲々とする中で、自分たちでは農業を発展させていくことができず、援助してもらうという状態でした。

精神論を話していても、それだけでは「物」が生まれてこない

大塚― オイスカがアジアの国々で活動を開始されたときは、食糧自給という農業の発展に重点をおかれたわけですね。

中野さん― そうです。昭和36(1961)年に、最初の精神文化国際会議を開催しました。予想以上に反響があり、多くの方々が日本にこられました。貧しい国々からも、文化人、学者、ジャーナリスト、宗教家などさまざまな人たちが集まりました。しかし、一所懸命精神論を話していても、それだけでは「物」が生まれてこないのです。
そうこうするうちに、インド亜大陸を大干ばつが襲いました。1960年代の半ばでした。精神論を話している場合ではないと、日本の篤農家の方々に呼びかけたのです。そのころは、日本もまだ一所懸命だったときです。ようやく前途の光を見出したころでしたが、そのころの復興のスピードというか、日本人のバイタリティというか、エネルギーはすばらしかったと思います。1964年には東京オリンピックがあり、高速道路ができ、新幹線も走りました。そのようなとき、インドなどの国々では毎日のように何千人という餓死者が出ていたのです。
一所懸命、篤農家のボランティアを募りました。戦争で迷惑をかけた国もありますし、昔は鉄砲と機関銃をもっていったのを、鍬とスコップにもちかえていこうという人たちに集まっていただきました。まずはインドに向かいました。餓死者が多く出ておりひどい状態でした。精神文化国際会議に参加された方々が地方政府などに働きかけ、受け入れ体制が十分とはいえないまでも準備を整えてくれました。

大塚― インドは広い国ですから大変だったと思います。どのあたりに行かれたのですか。

中野さん― ジャム・カシミール地方、パンジャブ州、ウタルプラデッシュ州、ハリアナ州など、主に北部ですね。日本の人たちは、目的地に着いて荷物を置いたらすぐに作業に取りかかるのです。フード・ファースト(Food First)という合い言葉の下で、インドの人たちと一緒になってやろうとしました。ところが、インドの人たちは最初のころは田畑にはいりませんでした。カースト制度があったからです。日本人はネクタイを締めきちんとした服装で大使館にも出入りする一方で、野良着に着替えて働いたのです。このように、昭和47年までインドに行った人たちが頑張ってくれました。この活動が、ほかの国々へも波及したのです。タイ、フィリピン、インドネシア、パキスタン、バングラディシュ(当時は東パキスタン)、スリランカなどです。
思い起こしますと、それまでに開催した会議で、出席者からいろいろな考え、たとえばヒンズー教のお坊さんたちの考えを聞いたりしておりました。中には、餓死者がたくさん出ているのに、宗教家が農業という次元の低いことに話題を落としてはいけないという意見もありました。日本人のように切り替えてもらうのに大変時間がかかりました。

植林の活動もすべて、現場から出てきた発想でした

「子供の森」計画に参加するマレーシアの子どもたち

大塚― 食べることは基本ですから、もっとお話しを聞きたいところですが、農業とも関係が深い植林などの環境保全には、どういうところから取り組みをはじめられたのでしょうか。

中野さん― すべて、現場から出てきた発想でした。現場で活動していると、環境問題が切実になっていたことに気づかされたのです。農業にはまず水が必要ですが、フィリピンの農民たちが、「雨季になっても雨が降らない。雲が出ない」「山を見たらハゲ山だ」「あの山は昔は木が一杯あったけれど、みんな日本がもっていった」と言うのです。確かに当時の日本は安い外材を輸入し、国内の山の手入れは放置された経緯があります。日本だけでなく、アメリカももっていったとしても、まず山に木を植えなければいけないという声があがってきたのです。これが、植林のきっかけです。ちょうどこの時期、「アジア太平洋地域開発青年フォーラム」を組織して青年たちによる農村開発にも取り組んだときで、のちに、植林活動はこの域内の青年たちとの共同による取り組みとなって行きました。このフォーラムの第1回会合は、1976年にタイで開催しましたが、タイ国の首相のご参加もいただき、若者たちに農村開発の動機づけを進めていくことになりました。

大塚― オイスカの方々がタイに出向いてなさったのですね。

中野さん― タイを会場に選んで、アジア太平洋地域から若者がたくさん参加したのです。その後、開催地を他国に広げながら回を重ね、1980年の第7回の会合はスリランカで開きました。これにも、スリランカの首相が参加されました。この会合で、本格的に植林をやろうということになったのです。「Food First」もつづけていたのですが、それに加え、「Love Green」というキャッチフレーズで青年たちの植林活動がはじまったのです。しかし、この活動をとおしてわかってきたのは、大人たちが植林に参加する動機が日当を得ることだったのです。その背景には貧困が大きく影を落としており、そのことを再認識させられました。
この体験から、オイスカは「子供の森」に発想を移したのです。1991年のことでした。「子供の森」計画(CFP: Children's Forest Program)は、子どもを主役に、学校の先生たちに理解してもらって進めています。子どもたちは純粋な気持ちで一所懸命植えるのです。植えた後に水をやらなければいけないとか、山羊に食べられたら困るからお父さんに柵をつくってくれとか、親まで動かすのです。そうすると、村人全員が、山に入っても子どもが植えた木を伐らないのです。皆で木を護る空気が流れ、学校の先生が「子どもたちの集中力が高まり勉強もよくやるようになった」と言われるように、さまざまな波及効果も生じました。

アルゼンチンでの「子供の森」計画に参加する中野さん

大塚― フィリピンはどのあたりではじめられたのでしょうか。

中野さん― ミンダナオ島です。

大塚― ミンダナオ島は日本とは縁が深い地域ですね。ところで、植林する苗木も現地でつくられたのですか。

中野さん― そうです。全部現地産です。フィリピンでは、ジェミリーナやマホガニーという早生樹を植えてきました。植林は山だけでなく、海でもマングローブを植えています。CFPではありませんがフィジーでは、海が汚れサンゴが白化して死ぬケースも増えており、地域住民と共にサンゴの「植林」にも取り組んでいます。サンゴの「苗木」を育て、岩に付着するよういろいろと手法を試しています。

大塚― ところで、「子供の森」は何ヶ国でなさっているのですか。

中野さん― 今年になってアメリカやアルゼンチンなどが加わったので、現在は32ヶ国になりました。

国が違えば言葉も違いますし、文化や宗教も違います

大塚― 非常に多くの国で活動されていますが、インドのカースト制のお話のように、それぞれの国は特色がありご苦労も多かったと思います。そのあたりのことを具体的にお話しいただければと思います。

中野さん―国が違えば言葉も違いますし、文化や宗教も違います。たとえば、イスラム教の国では日に5回お祈りしなければなりませんが、それをダメだというわけにはいきません。植林でないのですが、養蚕のプログラムのことを思い出します。養蚕では、お蚕さんが食べるときは桑の葉を休みなく与えなければなりませんよね。そんなときでも、お祈りの時間ですと言って、席を立ってしまうのです。「お蚕さんが死んでしまうから、神様にお願いして今はしっかりお蚕さんに餌をやって」と言ってもとおらないのです。このことを、その国の副首相に話す機会があったのですが、「そんなことをしていたら、我が国はいつまでも発展しないから、それはオイスカがちゃんと指示して下さい」とおっしゃっていました。
日本に研修にきた人たちに、日本語を押しつけるのは無理としても、日本語の「もったいない」とか、「ありがとう」とか、いい言葉を理解してほしいと思うことがよくあります。
オイスカが、今発信している言葉に「ふるさと」があります。言葉で「ふるさと」と言ったとき、一緒に生活し一緒にやっていくなかで「土を愛する」「故郷を愛する」という意味を込めて、「Love FURUSATO Our Home」というステッカーもつくっています。世界中の人びとが集まったら、「地球がふるさと(Mother Earth)」ですよね。地球に感謝を捧げ、植林でしたら、地球に緑の着物を着せてあげる(子供たちへの説明)ということです。

大塚― ご苦労されていることがよくわかります。ところで、今お話しに出た日本での研修には、どのくらいの方がこられているのですか。

中野さん― 年間に250人くらいです。最初の頃は1年間や2年間のコースが多かったのですが、今はJICAから受託するものもあり、1〜3か月の短期コースもあります。

大塚― 主に植林などのノウハウを修得してもらうわけですか。

中野さん― 派遣側からの要請もありますし、農業一般を主体にいろいろな職種のコースがございます。
そういう研修生の中で、地元に帰って農業の指導者や植林のリーダーになる方もいます。「子供の森」は学校をベースに進めていますが、学校現場に海外のNGOが入り込むのは大変なところを、研修生OBの努力で実現したこともありました。

大塚― それがすごく大事だと思います。

中野さん― ところで、アメリカでも去年、オイスカUSAが発会しました。ニュージャージー州にできたのですが、「子供の森」をはじめてくださいと言ったところ、4月にジョンF・ケネディという名の小学校で最初の「子供の森」がつくられました。アメリカでも行動してくれる若者を育てたいと考えているところです。

収穫を喜ぶ研修生たち(中部日本研修センター)

四国研修センターの農業研修の様子


「志ありき」でスタートしたオイスカの活動、これからも「くじけないで」やっていきたい

大塚― ますます活動が発展しているようですが、今後はどのように展開されようとしているのでしょうか。基本的な考えをお聞かせください。

中野さん― 大事なことは人材育成でしょう。今までもやってきましたけれども、ますます大事になると思いますね。子どもたちに、地球環境を護ることを受け継がせることが私どもの願いですし、子どもをターゲットに活動することが一番大事だと思っています。

大塚― よくわかります。ところで、国際的な場で活躍できる人材のことを考えると、日本人は──例外はあるにしても──コミュニケーションが苦手とか、内向きで遠慮しすぎると言われることがよくあります。

中野さん― 言葉の壁があるのは確かかもしれません。しかし、それ以上に、内向き思考と言われていることを私も実感しています。私どもがいろいろな国際協力のプログラムをつくり、若い人たちの参加を募ってきましたが、最近は応募者が大きく減りました。外へ出たがらないようです。このような状況を変えなくてはいけないと考えています。世界を知り日本を世界に知ってもらうためにも、とにかく若い人たちに実体験をしてもらうことが大事と思います。私どもの経験からも、最初は気が進まなくても、活動をはじめたら一所懸命になることが多いではないですか。たとえば、海外の人たちと交流し、共に汗を流し、ホームステイをするとか、一緒に食事をすることをとおして、よかったと実感してくれる場合が多いのです。そのような機会をオイスカはどんどん提供して、参加してもらおうと考えています。
環境の問題では、恐ろしくなるような報道が数多くあります。先日も、北極で氷が融ける問題を扱った番組を見ていると、解けた氷が海に流れて海流に異常が発生しているというのです。さらなる気候変動の要因ともなるのでしょうか。その影響を受ける生態系やさまざまな災害を予想しますと身が震えてきますね。地球に生きるすべての生命の問題です。厳しい話かもしれませんが、大変な試練を受けた日本人だからこそ、今、事態にくじけないで、その解決の先頭に立ってほしいと願っています。

大塚― 中野さんから、日本が経済成長した時期に取り残してきたこと、とくに国際的な援助や環境保全のためになされてきたご苦労の一端を伺ってきましたが、最後にEICネットの利用者へのメッセージをお願いいたします。

中野さん― オイスカは、志ありきでスタートいたしました。「金ありき」でも「物ありき」でも「人ありき」でもなく、「志ありき」でした。しかしいくら志があっても金、物、中でも人がなければ何も動きません。環境は活動の主要なテーマですが、環境の実態はますます負の方向に進んでいる気がしてなりません。今、オイスカが世界へ発信しているのは日本語で「ふるさと」づくりです。世界の人たち皆の共通のふるさとは「母なる地球」です。日本の若者たちにも勿論、そこに参加してほしいのです。世界中に同志の仲間を募っていることを知ってくだされば幸いです。

大塚― 本日は限られた時間でのインタビューでしたが、中野さんが取り組んでこられた活動と、その背後にあるお考えを伺うことができました。ありがとうございました。


オイスカ・インターナショナル総裁の中野良子さん(右)と、
一般財団法人環境情報センター理事長の大塚柳太郎(左)

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