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No. アメリカ横断ボランティア紀行(第23話) さよならレッドウッド
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Issued: 2010.01.21
さよならレッドウッド[3]
 目次
ウルフクリーク野外学校
出発
 モニタリングセンターとなった公園は、ネットワーク内の比較的小さな規模の公園に職員を派遣し、相手方の職員と協力してモニタリングを実施している。日常的なデータの収集は現地の職員が行い、機器や専門的な知識を必要とする分析や、多くの職員を必要とする調査はモニタリングセンターとなる公園が支援する。レッドウッドでは、資源管理部門の職員は、ウィスキータウン国立レクリエーション地域のモニタリングや管理火災の実施のために出張することが多かった。
 「このようなネットワークの導入により、ようやく小公園のモニタリングが可能となったのです」

 このネットワークは、クリントン政権下の1999年に創設された「自然資源チャレンジプログラム(囲み参照)」の中で、「今後5年間の間にすべての国立公園ユニットにおいてバイタルサイン(重要生物指標)モニタリング(囲み参照)を導入する」という決定に基づいている。つまり、カーター政権で打ち出された「全ての公園の自然・文化資源を守る」ということが、クリントン政権によりようやく具現化されたわけだ。「全ての公園」での資源保護は、言い換えれば小さな公園でのモニタリングをいかに効率的かつ確実に実施するかということでもある。
 このプログラムの導入により、アメリカの国立公園は単に「囲う」(公園区域を定め影響を排除する)ことから、「維持する」(資源状態を監視しながら順応的に管理する)レベルにステップアップしたと言えるだろう。

 この事例は、対極化した二大政党下での政策の継続性やダイナミックな側面を示しているようにも思える。つまり、政党としての政策の一貫性と政権交代による方針の転換という相反する側面である。モニタリングのように、定期的に公園内の資源を観測し、記録していくことは、こうした政策の転換の中にあっても資源管理の一貫性を維持するために必要不可欠なシステムといえる。

 「西部・太平洋地域事務所では、このバイタルサインネットワークを、公園の管理にも応用したのです」
 その一例が、ITシステムの維持管理である。国立公園局は巨大なITシステムを構築しつつある。その管理のために高度なIT技術をもつ職員を雇用している。そうしないと、南部オペレーションセンターなどのようにGPSデータなどの膨大な自然環境データの保管と処理を行うシステムのメンテナンスは難しい。

 「レッドウッドには、コンピューターシステムのエンジニアが2人いて、北部の管理事務所と南部管理事務所をそれぞれ担当しています」
 多少大げさに言えば、ITシステムの管理は、これまでの公園管理の基本である「施設」、「利用」、そして「自然環境」につぐ、第4の公園管理業務に急浮上してきた。それを加速させたのがテロ対策に伴うセキュリティーの高度化だ。そして、このIT管理の存在が公園間の新たなネットワーク形成の原動力ともなっている。
 「ネットワーク内の小公園には、専属のIT技術者を雇用する余裕はありません。そこで、レッドウッドの職員を派遣して、こうした小公園のIT管理を支援しているのです」
 日本の国立公園管理の現場でも、かつて「ブロック制」というものが導入され、国立公園の管理事務所のネットワーク化が行われた。例えば、私が役所に採用され、初めて配属された中部山岳国立公園管理事務所(当時;現中部地方環境事務所)は、中部山岳国立公園内の管理官事務所(レンジャーステーション)だけではなく、近傍の上信越高原国立公園及び白山国立公園の事務所からの申請も処理していた。複数の国立公園に関する業務を地域内の主要な公園管理事務所に集約することにより、少ない人員と予算で現場のバックアップ体制が大幅に充実したと言われている。これも同じ発想だったのではないかと思う。
 余談になるが、当時の日本の公園事務所の予算は非常に厳しく、電話代や切手代も相当に切り詰めていた。長電話は当然厳禁。一度、許認可の申請の件で電話をしていると、見かねた所長が所長室から飛び出してきて、「電話が長い!」といって電話を切ってしまった。長電話は経費にかかわらず好ましいことではない、当時はそういう教育が徹底していた。
 一方、僻地で勤務する現地レンジャーとのやりとりには、予想以上に通信費や時間がかかる。レンジャーはほとんどが一人体制だったため、現地パトロールに出ると2〜3日つかまらないこともあった。携帯もメールもなかったので、電話、FAX、郵送の手段しかない。当時私は横長の短冊状のFAX送信票を使用していた。通信時間を節約し、B4のロール紙の幅を最大限活用するためのものだった。
 このブロック制の導入については、当時これを担当されたH教授の環境時評に詳しく紹介されている【10】

【10】 日本の国立公園におけるブロック制の導入
H教授の環境行政時評 第7講(その4)
ウルフクリーク野外学校
 私たちのボランティアハウスのあるウルフクリークというところには、野外学校がある。国立公園内に2ヶ所設置されている野外学校のひとつだ。ウルフクリークにはレッドウッドの原生林や珍しいトウヒの原生林があり、そのまわりを一度皆伐されてしまった二次林がとりまいている。きれいな小川(クリーク)が1本流れており、それがこの一帯の地名の由来ともなっている。
ウルフクリーク野外学校ウルフクリークのレッドウッド原生林
ウルフクリーク野外学校ウルフクリークのレッドウッド原生林
ウルフクリークの原生林で見上げた様子。樹冠がはるか上の方にある

 ウルフクリークの歩道地図の作成を手伝ったときには、GPSデータをとるために何度も歩道を歩き回った。特に、木の高さが100m近くにもなる原生林ではなかなかうまくデータがとれず何度も通うことになったため、野外学校に参加している子どもたちにも時々遭遇した。子どもたちに取り囲まれて質問されることもあれば、環境教育の材料としてインタープリターのネタにされることもあった。
ウルフクリーク野外学校の職員と。私の隣に立っている方がパムさん

 野外学校には常勤の正職員1名の他、臨時職員1名、そして管理人が勤務している。春から秋にかけては、大学生のインターン2名程度がそれに加わる。
 管理人のパムさんはネイティブアメリカンの女性だ。アウトドアスクールだけでなく、ボランティアハウスの世話もしてくれる。私たちが学校に続く砂利道のくぼみ(アメリカでは「ポットホール」と呼ばれる)を砂利で埋めてあげたのをとても喜び、それ以来とても親切に世話を焼いてくれた。

 このアウトドアスクールは、主に地元の児童を1泊2日で招き、原生林の中や敷地を流れるクリークで自然教育を行う施設だ。広場でネイチャーゲームをしたり、原生林に寝転んだり、屋内で顕微鏡観察などを行う。
 毎週月火、木金と週に2組のグループを受け入れる。バンガローは5棟あり、40名程度の子どもたちを受け入れるには十分な規模がある。

 パムさんが忙しそうに電気自動車で走り回っている。いつもより何かうれしそうだ。
 「今日はインディアンの子どもたちが来るんです。」
 
 この公園では毎年1回、全国のネイティブアメリカンの子どもたちに向けた環境教育プログラムが開催されているとのことだった。
 通常、国立公園の野外学校は地元の小中学校生を優先する。将来、地域の根強い公園サポーターになってくれるというしたたかな戦略でもある。だから、他の地域のグループの利用は原則として有償で、かつスケジュールに余裕のある期間に限られる。
 一方、レッドウッド国立州立公園の位置するカリフォルニア州北部沿岸地域一帯にはネイティブアメリカンの居住地やコミュニティーが多い。今日のアメリカではネイティブアメリカンの政治力は決して弱くない。現に、通常は認められないカジノを運営する権利をもっていたりする。
 「一般のインディアンは貧しくて、アルコール中毒が蔓延しているんです。カジノの経営はコミュニティーの自立を目的としていますが、多くの人々はいまだに社会の底辺で貧困に喘いでいます」
 これは意外なことだった。アラスカの保護地域では、ネイティブアメリカンが非常に強い権利を持っている。狩猟もできるし、広大な土地の所有権を持っている。
 しかし…。
 個人の暮らしが物質的・経済的に豊かかどうかという点では確かに疑問が残る。伝統的な暮らしを続けるための権利はあるが、現代の教育や福祉、経済的な発展からは完全に取り残されているように思える。
 
 「子どもたちはこのプログラムをとても楽しみにしているんです。国内を旅行することはめったいないし、ましてや国立公園でキャンプをするなんてことはほとんどないんです」
 これを聞いて、パムさんの張り切りようがよくわかった。
 ところで、パムさんが連れまわしている老犬の名は「イシー」。北部カリフォルニア州最後のネイティブアメリカンの生き残りで、Yahi族のIshi(イシー)という人物にちなむ名だそうだ。私たちはパムさんを通じて、ネイティブアメリカンの歴史や暮らしについて様々なことを学ぶことができた。

出発
車に満載された荷物。運転席と助手席以外はスペースが全くない

 ボランティアハウスに施錠して車に乗り込む。結局、ここに来た時よりさらに荷物が多くなってしまった。その上、今回は雪に備えてタイヤチェーンやスコップ、食材なども積み込んでいる。
 鍵を返しに南部事務所に立ち寄る。最後のお別れだ。

 「二次林調査、無事終わるといいですね」
 「レポートができたら送るよ。2人とも気をつけて」

 挨拶も早々に事務所を出る。公園の南の端にあるオペレーションセンターを出て、公園内の道路を北の方へ縦断していく。レッドウッドの森、太平洋、そしてまたレッドウッドの森。この日はとても天気がよかった。

 約1時間弱かかるはずの公園を縦断する行程もあっという間に感じられた。公園の北のはずれにあるビジターセンターで昼食をとる。これでレッドウッドも最後かと思うとため息が出る。11月からはワシントンDCという大都市で研修し、翌年3月には帰国の予定だ。公園での現場研修は終わり、今後は事務所内のデスクワークが中心の研修になる。

 昼食を終えて公園を出ると道路脇の風景が変わってきた。赤茶けた樹高の低いダグラスモミの二次林地帯に入る。少し内陸に入っただけなのに乾燥し、気温も上がってきた。このあたりでは今も伐採が行われている。
私たちが勤務していた南部オペレーションセンター(写真奥の高い切妻屋根の建物)

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