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アメリカ横断ボランティア紀行(第37話)
さよならワシントンDC
Issued: 2014.02.13
ケンタッキー州以来、アメリカ大陸を一緒に横断してきた愛車モンタナ。ワシントンDCではすっかり出番が減ってしまった。
こうしてアパートでの一か月は報告書三昧となった。寒いこともあって、用がなければアパートにこもりっきりで作業を行った。ようやく報告書にめどが立ったところでアパートを引き払い、さんざんお世話になっていた知人宅に居候として転がり込むことにした。
持ち物もどんどん処分した。報告書ができあがったので、資料の大半は廃棄した。ともに大陸を横断してきた愛車モンタナも売却することになった。中古車の買い取り業者に持ち込んだところ、ケンタッキーで購入した代金のほぼ4分の1に買い叩かれた。金額はともかく、この自動車との別れはつらかった。車社会のアメリカでは、自家用車との関係は日本とは違う。大げさかもしれないが、車を失った私たちは精神的にも物理的にもアメリカ社会から疎外されたような気がしたものだ。
荷物整理が一段落して、帰国後すぐに関係先に報告書を提出できるようにと、報告書の原稿をそろえて、印刷製本を申し込んだ。仕上がりを待つ間、ニューヨークとボストンを訪問することにした。
ボストンには、高校時代に交換留学生として来日していたスコット君がいた。すでに結婚して息子さんが一人いた。
ワシントンDCからは電車で移動した。これがアメリカ滞在中の唯一の鉄道の旅となった。ボストン郊外の一軒家は広々としていて、近くにはきれいな小川も流れている。私たちは2階のゲストルームに泊めていただくことになった。
保険会社に勤めるスコット君はいつも忙しそうだったが、仕事の合間を縫ってハーバード大学や名物料理のクラムチャウダーの店などに連れて行ってくれた。滞在中私がどうしても行きたかった「カートーク」のスタジオの前にも案内してくれた。アメリカの長寿ラジオ番組で、マサチューセッツ州のハーバードスクエアにある小さなスタジオから放送されている。車に関するよろず相談番組なのだが、ほぼ半分は笑い声と思えるほどにぎやかな番組だ。手のかかるアメ車に乗っていた者としては、実に参考になる番組だった。帰国する前にはぜひ訪問したいと考えていた。
もう一か所、スコットが連れて行ってくれた場所がある。こちらはかなり意外な場所だった。当時、どうしてもわからないちょっとした謎があった。「なぜアメリカの豚肉は安くておいしいのか」というものだ。とんかつが大好物の私にとって、分厚く格安でかつ柔らかいアメリカの豚ヒレ肉は大変魅力だった。何とかパン粉を作っては日本風のとんかつを揚げてもらって食べたものだ。そんな話をスコットにしたところ、わざわざ遠回りして牧場の近くを車で走ってくれた。運転席から指差す先には、小山のような動物が動いていた。
「あれがそのブタだよ」
というスコットの言葉に違和感があった。豚というよりは背中のまるい牛のようだ。
「大きいけどまだ子どもなんだ」
要は、成長ホルモンで成長を促し、子豚のまま出荷できるサイズにまで成長させてしまうわけだ。飼育期間が短いので安いし、子豚の肉質だから柔らかい。ようやく謎が解けた。出荷までにはホルモンはなくなっているはずだが、以来、それほど豚肉を食べることはなくなった。日本に帰ってきて相変わらず固い生姜焼きにため息をつきつつ、少しホッとする。
ニューヨークは完全な観光旅行になった。エンパイアステートビル、ブロードウェイ、セントラルパークなどを回ったが、それまで暮らしていたところとは全く違う場所だった。これまでなかなかいいお土産がなかったが、ニューヨークにはちょっとした小物がたくさんあったから、日本への土産をたくさん仕入れることができた。アウトレット店では半日ほどつぶして、4月からの職場復帰に向けてネクタイや靴などを仕入れた。買い物の詰まった大きなカバンを抱えて、高速バスでニューヨークからワシントンDCへ戻った。
英語の報告書の原稿も、ニューヨーク滞在中にほぼ完成した【2】。この報告書を提出すれば研修が無事終わるはずだったが、帰国直前にちょっとした仕事が入ることになった。
帰国直前に借りたレンタカー。馬力があり山道でも楽に運転できた。
帰国日のちょうど6日前、環境省の先輩レンジャーが急きょワシントンDCに来ることになった。年度末でようやく旅費のめどが立ったので、ぜひ国立公園の施設がみたいという。一か月ほど前に連絡があったが、本当に来るかどうかは半信半疑だった。旅程は、DC周辺の滞在が3日間、その後西海岸の国立公園に移るというものだった。西海岸のアレンジは国立公園局国際課のルディーさんにお願いした。
DCからの3日間の訪問先は、迷わずウェストバージニア州のハーパースフェリーにした。国立公園局のデザインセンター、ハーパースフェリーセンターを訪問【3】して、2003年当時に策定されたばかりだったサインマニュアルや標識類の新基準についてもう一度伺いたかったし、レンジャー研修所であるマザー研修所も再訪しておきたかった。シェナンドア国立公園の施設の責任者が対応してくれることも決まった。車はすでに売却してしまったが、ちょうど帰国の一週間だったので、空港でレンタカーを借りることにした。季節外れということもあり、大型の4WDが格安でレンタルできた。これで最後は自力で空港までたどり着けるめどもたった。
レンジャーの大先輩のIさんとその同僚の2人連れは英語が全くわからない。ところが、国立公園内の施設整備を担当しているだけに、専門的な質問が飛び出す。通訳を買って出たはいいが、電子辞書を片手に四苦八苦しながらやりとりする。二人にとっても、これらの訪問先は希望にかなっていたようで、相当収穫があったようだ。おそらく、こうした施設を専門にした調査というのはあまり行われなかっただろう。
道路わきの石積みは丁寧に造られている。自動車からの視界を遮らないよう低く抑えられている。
特にシェナンドア国立公園では、主要なトイレをことごとく見て回ることになった。すでに閉鎖されていたが、直近まで使われていたという便槽型の木造トイレから、ビジターセンター付属のしっかりとした水洗トイレまで、案内してくれる方も同じ施設担当だけあって説明に熱が入った。男子トイレのバックヤードは特におもしろかった。小便器が並んでいる壁の反対側にメンテナンス用のスペースがあり、便器関係の配管がむき出しになっている。通常日本では埋め込みになっている給排水管が露出しているため、物が詰まった時でもコンクリートを破砕せずにメンテナンスができる。建物自体は大きくなってしまうが、道路も駐車場もゆったりと作ってあるため、それほどの圧迫感はなかった。
ハーパースフェリーセンターでもマザー研修所でもこんな調子で、かなり好意的に受け入れられた。日本からの訪問者は、大体通り一辺倒の質問しかしない。ウェブサイトに載っているようなことを聞くだけのことも少なくない。施設の設計やメンテナンスは、公園管理者にとって苦労も工夫もあるところだから、突っ込んだ質問や意見交換などには熱が入ったのもわかる気がする。
マザー研修所では、研修所の取り計らいで、アパラチアントレイルを維持管理している「アパラチアントレイル・コンザーバンシー(ATC)」の職員との意見交換も行われた。日本でも長距離自然歩道が整備されているが、歩道の管理が大きな問題になっていた。アメリカの先進事例としてアパラチアントレイルの管理について話を伺ったが、このATCこそボランティア精神の塊のような団体だった。社会が成熟するにつれ、日本でも必ずこうした団体が活動できるようになるという気持ちにもさせられた。
ATCの皆さんと記念撮影。後方左端の方が、当時のマザー研修所長のマイクさんだ。
その後、Iさん一行を空港に送ってからは、もうほとんど記憶がない。アメリカ滞在中さんざんお世話になったNさん一家には結局最後のがらくたまで引き取ってもらう始末。最後においしいイタリアンをごちそうになり、空港まで見送っていただいた。
日本に帰国してからはアメリカのことなど思い出す余裕もないような毎日が待っていた。航空便で製本されたレポートが届き、それをJICAと所属先に提出し、研修は終了した。
なお、Iさんはその後しばらくして、業務で尾瀬の燧ケ岳に登った翌日、急逝されてしまった。本当に残念でならない。この場をお借りしてご冥福をお祈りしたい。
アメリカ横断中、一番心配だったのが車の故障でした。特に、横断中に砂漠の真ん中で故障してしまったらどうしようと思っていました。そこで、携帯電話を購入することにしました。最初の横断の直前、ケンタッキー州のスーパーマーケットでプリペイドカード式の電話機を見つけ、カードもついたものを20ドルほどで購入しました。
2度の横断中は幸い大きな故障もなく、電話機を使うこともありませんでした。また、私たちがあまり英語での会話が得意ではないと思われたのか、ほとんどの連絡は電子メールでした。そのため、プリペイドカードのポイントはまったく減らず、逆にキャンペーンなどで増えていきました。
ところが、ワシントンDCに来てから様子が一変しました。急に携帯電話を使うようになったのは、現地の日本人との連絡のためでした。特に、いろいろな荷物を必要な方にあげたりお譲りしたりしたのですが、その連絡には大活躍しました。また、帰国直前に日本からお客さんが来た時にもかなり使いましたが、それでもすべてのポイントを使い切ることができませんでした。
日本から持ってきたFAX付き電話機。日本との連絡やコピー機としても大変重宝した。
レッドウッドのスリフトショップ(リサイクルショップ)で購入した日本メーカーのパン焼き機。購入価格は10ドルと格安だったが、大活躍してくれた。
記事・写真:鈴木渉