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環境さんぽ道

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様々な分野でご活躍されている方々の環境にまつわるエッセイをご紹介するコーナーです。

No.062

Issued: 2017.02.10

古地図で歩く江戸の街

大久保 智弘(おおくぼ ともひろ)さん

大久保 智弘(おおくぼ ともひろ)さん
作家。立教大卒。
著書に『水の砦』(講談社歴史小説大賞受賞、テレビ朝日ドラマ化)、『木霊風説』、『勇者は懼れず』他多数。
慶長7年頃の江戸周辺の地形

慶長7年頃の江戸周辺の地形 ※拡大図【PDF】はこちら

 江戸街歩きが流行っている。環境に対する関心の深まりや、老後も元気で過ごしたい、という健康志向もあるだろうが、東京という街がどのようにして造られ、どう発展したかを思い描きながら、江戸の古地図を見るのは楽しいものである。
 東京には江戸の名残が残されている、とは言っても、太田道灌が松原を望む海近くに、江戸城を築いたのが長禄元年(一四五七)、応仁の乱を経て大永四年(一五二四)北条氏綱が江戸城を奪取、さらに天正十八年(一五九〇)には秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅び、徳川家康の江戸討ち入りまで、東京(江戸)は東国の片田舎に過ぎなかった。いまの東京都心部はほとんどが湿地帯か海の底で、陸の部分もかなり起伏のある地形だった。
 大都会となった現在の東京を見て、江戸という街がどのような姿をしていたのか、想像することは難しいかもしれない。それどころか、明治の東京、関東大震災によって壊滅し、さらに空襲で焼け野原となった東京の姿さえ、思い浮かべることは容易でない。

 古地図の面白さは、さまざまに変容してきた江戸の姿を、あれこれと想像できる余地が残されているところにあるだろう。度重なる地名変更によって、土地のゆかりを探る手立てはかなり失われてしまったが、それでも由緒ある地名はいまも残されているから、それを頼りに江戸の地形を知ることができる。
 たとえば、渋谷や四谷は川の流れ込む窪地で、文字通り谷であったことを、古地図を見ながら確認することも楽しい。車道を走ったり、電車や地下鉄に乗っていれば気づかないが、東京は決して平坦な街ではなく、かなり起伏のある地形だということが、自分の足で歩いてみることによって実感することができる。古地図を片手に町並みを眺めながら歩いていると、現在ある東京という複雑怪奇な街が、長い歳月と人の手によって、作り出された土地であることが分かるだろう。

安政3年 武蔵図(部分)

安政3年 武蔵図(部分) ※拡大図【PDF】はこちら


 東京の魅力を知ろうとすることは、江戸の魅力を知ることに等しい。江戸がベニスに劣らぬ『水の都』だった面影は、いまやほとんど残されてはいない。江戸のインフラはまず水運の整備から行われ、街全体に運河が張り巡らされた。


2012年1月18日付朝日新聞の記事より

2012年1月18日付朝日新聞の記事より ※拡大図【PDF】はこちら


 江戸の街が四次にわたって改造されたのは、都市部の拡張と人口の集中があるからだが、不思議なことに、江戸の人口はある水準まで達すると増えも減りもしなくなる。江戸文化と呼ばれるものは、幕府が瓦解する数十年前に絶頂期を迎えた。そしてまた不思議なことに、庶民の文化は政治的には脆弱な国家体制のもとで爛熟した。


 わたしたちが和風と呼んでいるものは、江戸時代からいまに伝わる特殊な感性ではないだろうか。これもまた不思議なことに、日本独自の文化が育ったのは、海外との交易を断った平安時代と、鎖国していた江戸時代だけなのだ。だから壁を築けというわけではない。


 残念なことに、明治時代における『ジャポニズム』や、最近よく言われている『クールジャパン』にしろ、海外から指摘されてようやく日本的なるものに気づくというのが、この国が持つ文化的なるものの体質だった。そして何の自覚もなく独自な文化を育てたのは、海外からの視点を気にしなくなった鎖国時代だけだった、という皮肉な結果になる。
 この体質はどうにかならないものだろうか。これもまた日本独自の感性なのかもしれないが、他者におもねる『オモテナシ』を売り物にする体質だけは、なんとかならないものか、と思ったりする。

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記事・図版:大久保 智弘)

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