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環境さんぽ道

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様々な分野でご活躍されている方々の環境にまつわるエッセイをご紹介するコーナーです。

No.066

Issued: 2017.06.12

古地図で見る江戸の町

大久保 智弘(おおくぼ ともひろ)さん

大久保 智弘(おおくぼ ともひろ)さん
作家。立教大卒。
著書に『水の砦』(講談社歴史小説大賞受賞、テレビ朝日ドラマ化)、『木霊風説』、『勇者は懼れず』他多数。

 現代の東京から江戸の町を想像することは困難である。戦後の焼け跡から復興した東京は、バラック街から始まり、高度経済成長期を経て、高層ビルが林立する高機能都市、さらにバブル崩壊から二十年不況と言われる停滞期が続き、昔ながらの町並みはすっかり様相を変えた。東京は徹底した破壊と再生と増殖の街である。
 と、一般には思われているが、江戸の古地図を見て親近感を覚えるのは、地名や町名、川の名前や橋の名前が、そのまま残っているからだろう。消えてしまった江戸の面影を自分の足で探す。これが町歩きの醍醐味ではないだろうか。

 わたしは神田駅前の某ビルに『時代小説講座』を持っているが、元気なお年寄り(失礼)から、地図を頼りに旧街道を踏破した、という話をよく聞かされる。熟齢の生徒(ご無礼を)たちと一緒に、小名木川と横川が十文字に合流しているウォーターフロントを歩いたこともある。江戸時代に開鑿された運河である。その気になれば、失われた江戸の面影を探すことも難しくはない。
 スカイツリーから展望する東京の地形は、『江戸名所圖會』などに描かれた鳥瞰図を彷彿とさせた。ヘリコプターやドローンもない時代に、江戸の絵師たちはどうやってこの光景を描くことが出来たのか、と不思議に思った。
 参勤交代で江戸に出た地方武士たちは、地図を片手に町歩きを楽しんだに違いない。江戸の町は四度に渡って大改造された。それぞれの年代毎に、多様な江戸地図が刷られている。かなりの需要があったはずだ。
 まず『新添江戸之圖』を見ていただきたい。版元は江戸日本橋二丁目太郎右衛門。この版を刷ったのは明暦三年(1657)正月とあるから、俗に振袖火事と呼ばれた明暦の大火直後だろう。明暦の大火で江戸の町は大きく変わる。関東大震災、東京大空襲によって、江戸の町はおろか、明治の東京、大正デモクラシーの東京、昭和の東京が消滅してしまったように。いや、それ以上の変化が江戸の町を襲った。江戸開府から半世紀が過ぎ、将軍の城下町はその役割を変えた。堅固な城塞都市だった江戸が、庶民の町に変わる端緒となったのだ。そしてこれを機に、大規模なインフラ整備が行われた。言ってみれば、明暦の大火を境にして、戦闘を想定した武装都市から、生活機能を備えた大都市へと変化していったわけだ。網の目のように張り巡らされた堀割は、舟による物流の主翼を担い、ヴェニスに劣らない『水の都』になった。しかし『新添江戸の圖』には本所と深川はない。隅田川の対岸は湿地帯が続く無人の地だったのだ。

新添江戸之圖

新添江戸之圖 ※拡大図【PDF】はこちら

懐寶御江戸繪圖 ※拡大図【PDF】はこちら


 年代ごとに違ってゆく古地図を読み比べて、変わったもの、変わらないものを探してみるのも楽しい。参考に『懐寶御江戸繪圖』を見てみよう。文久元年(1861)江戸日本橋南一丁目須原屋茂兵衛版だから、明暦の大火から204年たち、アメリカでは南北戦争が勃発し、明治維新まであと7年の年である。わたしたちに馴染みのある江戸とはこの時代のことである。

 200年の歳月を経て、江戸がどのように発展したか、もう一つ参考に安政三年版の『武蔵國全圖』を見て貰いたい。紙数が尽きたので説明は次回に譲るが、古地図が様々な情報を与えてくれることを、分かっていただけたら嬉しいと思う。

武蔵國全圖

武蔵國全圖 ※拡大図【PDF】はこちら

武蔵國全圖(アップ)

武蔵國全圖(アップ) ※拡大図【PDF】はこちら


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(記事・図版:大久保 智弘)

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