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環境さんぽ道

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様々な分野でご活躍されている方々の環境にまつわるエッセイをご紹介するコーナーです。

No.070

Issued: 2017.10.10

武士の教養

大久保 智弘(おおくぼ ともひろ)さん

大久保 智弘(おおくぼ ともひろ)さん
作家。立教大卒。
著書に『水の砦』(講談社歴史小説大賞受賞、テレビ朝日ドラマ化)、『木霊風説』、『勇者は懼れず』他多数。

 長く続いた江戸ブームにもいささか陰りが出てきたようだが、わたしたちが暮らしている日常の延長として、伝統や日本文化を感じさせてくれる江戸という時代への親近感は、これからもなくなることはないだろう。
 現代に直結している過去は江戸に求めるしかない。それ以前の過去には生活実感としての確かな手応えがない。
 それでは江戸についてどれだけ知っているかというと、あやふやな知識しか持ち合わせていないことに気付く。
 江戸ブームというのはいわば感覚的な郷愁であり、ほんとうのことは分らないけれど、分ったような気がしていることがかなりある。
 たとえば『武士の家計簿』という新書がベストセラー(発売年の売り上げ20万部)になったことがあるが、磯田道史氏によってこの本が書かれるまで、幕末維新の武士がどのような経済状態であったのか、一般には知られることがなかったと言ってよい。
 これを読めば『士農工商』という封建的な身分が、思っていたほどの格差では無かったことが分るし、現代人の暮らしとも大差ない生活感覚であったことが分り、どことなく親近感を覚える人もいるだろう。
 今回は幕末に生きた地方武士の教養について考えてみたい。
 わたしは実証主義者なので(笑)身近なところから考えてゆこう。
 それはある武士が書き残した蔵書目録を見たことから始まる。
 ある武士とは、信州諏訪藩の用人を務めた塩原彦七のことである。
 いまも塩原家には、蔵書目録に記されている漢籍が、ほとんど失われることなく残っている。江戸幕府が瓦解するとともに、幕藩時代の武士は俸禄を失い、封建時代から明治政府の推進する近代化へと雪崩を打ったように変化した、と日本史の教科書には書かれているが、江戸から明治へと政権が変わっても、人々の暮らしぶりが激変したとばかりは言えない。

 しかし文明開化を合い言葉に、旧時代のものが価値を失い、それによって多くの生活資料が廃棄されたことは事実だろう。
 大名家に伝わる家宝や文化財が流出して、散逸してしまった例は枚挙にいとまがない。まして一藩士の蔵書がそのまま保管されている例はまれだろう。


 これを見れば幕末の武士が、学者としても通用する広範な教養を持ち、知的好奇心も旺盛で、意外なほどに視野も広かったことが分る。
 蔵書のほとんどは漢籍である。だからそれは旧時代の教養で、現代とは無縁な書物だと決めつけてはいけない。
 中には頼山陽の『日本外史』や林子平の『海国兵談』もあり、前者は尊王攘夷派の思想的根拠となり、後者は世界情勢を論じて国防を説いた啓蒙書であり、開国論のはしりとも言うべき禁断の書だった。
 なぜこのようなことを言うかというと、塩原彦七は過激な尊皇攘夷を唱えた水戸浪士『天狗党』が中仙道を押し渡ったとき、ほとんどの藩が穏便さを装って領内の通過を見過ごした中で、唯一天狗党と戦った諏訪藩の軍師を務めていたからである。
 地元では『和田峠合戦』と呼ばれている。それは尊皇攘夷を唱えて天下に恐れられていた天狗党にとって、京都に向かう途中で遭遇した唯一の戦闘だった。諏訪勢の陣頭指揮を執っていた塩原彦七は、水戸浪士との接近戦で負傷した。塩原家にはいまも彦七が着用した『血染めの鎖帷子』が残されている。
 だから塩原彦七を、旧体制(徳川幕府)を守ろうとした旧弊な武士と言うことは出来ない。鎖国論者も開国論者も、教養の上では大差なかっただけでなく、当時としては最高の教養を身につけていた知識人であったと言えるのだ。
 たとえば彦七の蔵書を読みこなせる者が何人いるだろうか。いまでは入手不可能の稀覯書もその中には含まれている。大学受験のために覚え込む知識などたかが知れている。知識と教養とは別物なのだ。
 教養が必要とされていた時代は江戸期しかない、とつい強弁したくなるような広範の蔵書と言えよう。
 信州の山奥でどうしてこれほどの漢籍が入手出来たのか。それは書物を大切にする『知のネットワーク』とも言えるような流通経路があったからではないか、とつい夢想したくなるような誘惑に駆られる。

 塩原彦七をただ一人だけ例にとって、だから江戸時代の武士は教養が高かったのだ、と言うつもりはない。しかし蔵書の中に『伊豆七島全圖』『美濃圖』『信濃国圖』『萬国全圖』『日本全圖』『日本中古沿革圖』などがあるから、地理的な視野も広く、世界地図も認識されていたことも疑えない。
 さらに蔵書中には『海外新語』など、黒船が来航した時代を反映して、外国語への関心も高かったことが分る。


 諏訪藩主の因幡守忠誠は、元治元年(1864)から慶応元年(1865)にかけて幕府の老中を務めていた。丁度そのとき、尊皇攘夷を唱えて筑波山に挙兵した水戸の天狗党が、京都へ向かって進撃を開始した。総勢で1000余名、10数門の大砲と数十丁の鉄砲を備えていた。殿様が老中をしていたから、塩原彦七は思想を同じくしていたかもしれない天狗党と、諏訪藩の軍師として戦わざるを得なかった。
 だから佐幕派であったとは言えない。
 蔵書選びには蒐集した者の人柄や思想がにじみ出ている。塩原彦七は、現代的に言えば、グローバルな思考法を持っていた人物だったことが窺われる。
 古地図を見ることがその時代を知る手がかりとなるように、その人の蔵書を見れば人格や思想性までが身近に感じられる。いずれも想像力を働かせることによって得られる楽しみだ。
 それぞれの家に伝えられた蔵書を掘り起こしていけば、これまでとは違った時代の見方ができるはずだ。歴史の書き換えも可能だろう。そんな『知のネットワーク』を夢想している。

塩原彦七文庫の全容
塩原彦七文庫の全容

塩原彦七文庫の全容
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塩原彦七文庫の全容
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塩原彦七文庫の全容

塩原彦七文庫の全容

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(記事・図版:大久保 智弘)

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