○参考3:アラスカ年表(アンカレッジ歴史・美術館「アラスカ展示室資料」などを基に作成)
1648年 |
ロシアの探検家デゼニエフがベーリング海峡を横断。 |
1725年 |
ピョートル大帝の命を受けたデンマーク人ヴィトス・ベーリングがアラスカ沿岸探検に出発。 |
1740年代 |
ロシア人による毛皮猟がアリューシャン列島で行われる。 |
1780年代 |
毛皮貿易が急成長。 |
1799年 |
ロシア・アメリカ商会が設立され、アラスカにおける毛皮貿易を独占。 |
1840年代 |
1700年代の初めには約1万人だったアリュート人の人口が、天然痘や虐待、飢餓などにより4千人に減少。密漁や乱獲により毛皮猟が下火となる。 |
1867年 |
ロシアがアメリカにアラスカを720万ドルで売却。 |
1879年 |
ジョン・ミュアーがアラスカを訪れる。同氏の影響で自然保護の機運が生まれる。 |
1880年 |
現在のジュノー近郊で金が発見される。 |
1898年 |
クロンダイクゴールドラッシュが起こり、2万人もの人々がアラスカやカナダ西部に押し寄せる。 |
1914〜1923年 |
アラスカ鉄道建設。 |
1942年 |
日本軍がキスカ島とアッツ島を占領。 |
1959年 |
アラスカ州が49番目の州に昇格(それまでは準州)。 |
1966年 |
原住民の権利を守るために、連邦政府により土地所有権凍結が言い渡される。 |
1968年 |
プルードー湾で大規模な油田が発見される。 |
1971年 |
アラスカ原住民請求権解決法(ANCSA)が制定され、これにより4,400万エーカー(約1,780万ヘクタール)の土地と約10億ドルの補償金が原住民に支給される。 |
1977年 |
トランスアラスカ石油パイプラインが完成。 |
1978年 |
カーター大統領により、17箇所の新たな国立記念物が指定され、新たに5,600万エーカー(約2,270万ヘクタール)の土地が保護されることとなった。この指定は、アラスカ重要公有地法(ANILCA)制定まで効力を有していた。 |
1980年 |
アラスカ重要国有地保全法(ANILCA)制定。アラスカ州は、連邦所有地のうち1億300万エーカー(約4,170万ヘクタール)を州有地とすることが可能となった。 |
※今回の原稿執筆には、上岡克己著「アメリカの国立公園」、Walter R. Borneman著「Alaska -Saga of a bold land」を参考にさせていただきました。
<妻のひとこと>
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現地調査に出かける時、宿泊先の手配や荷物の準備などは大抵私の担当でした。今回の訪問地であるアラスカは、観光地としてはとても有名ですが気象条件も厳しいということで、いくつか注意していたことがありました。
一つ目は、アラスカの観光シーズンは短く、観光客が集中するということです。宿泊先やガイドツアーなどはなるべく早く予約する必要がありました。他の大陸48州に比べて、料金もやはり高目です。また、宿泊先などの予約にも手間取ることがありました。アラスカでは大手チェーンのモーテルなどは少なく、小規模なホテル、個人経営のロッジやB&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)などが多いので、インターネットで予約できないこともありました。そんな時は、電話やFAXでやりとりをしなければなりません。
二つ目は寒さ対策でした。私たちが訪れたのは9月上旬でしたが、フェアバンクスなどでは雪に見舞われることもありました。室内はセントラルヒーティングでどこも暖かいので、服装は重ね着にしてこまめに調節できるようにしました。早朝、国立公園内で野生生物を観察するような場合には、長い間じっと立ち止まっていなければなりませんので、手や足先の寒さ対策が必要です。手袋も、薄手のものと厚手のものを重ねたり、貼るカイロを足先に貼ったりしました。帽子や耳あても持っていきましたが、とても重宝しました。
厳しい寒さは電気製品にも影響しました。バッテリーなどは寒さですぐに使えなくなってしまいました。そのため、コートのポケットにカイロを入れ、バッテリーを温めておくとかなり持ちがよくなりました。
最後は車のガソリンです。アラスカではレンタカーを借りて移動していましたが、市街地以外ではガソリンスタンドが少ないので、早め早めに給油するようにしていました。これだけ大量に石油が出るアラスカですが、税金の高いカリフォルニアと比べてもガソリンの値段が1〜2割くらい高かったのは意外でした。
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