環境を巡る最新の動きや特定のテーマを取り上げ(ピックアップ)て、取材を行い記事としてわかりやすくご紹介しています。
トップページへ
南アルプスのふもとから ──新しい自然保護官事務所に着任して──
実録・環境省レンジャーものがたり(第2回)
アメリカ横断ボランティア紀行(第20話)
洞爺湖サミットのこぼれ話
実録・環境省レンジャーものがたり(第1回)
最近の2つの国際的な化学物質の取組と市民参加
シリーズ・もっと身近に! 生物多様性(第17回)
「ABSのABC 〜生物多様性条約での利益配分の事始」
[an error occurred while processing this directive]
No. アメリカ横断ボランティア紀行(第20話) アラスカへ(その2)
page 4/4  123
4
Issued: 2009.03.18
アラスカへ(その2)[4]
 目次
 アラスカの石油開発にとって大きな鍵となったのは、パイプラインだった。アラスカの北部、北極海に面した地域には、豊富な石油が埋蔵されていると考えられていた。ところが、この石油が発見され採掘できたとしても、北極海は凍結していて、海路を使って積み出すことができない。商業ベースで石油を生産するためには、何としても南のアラスカ湾にある不凍港まで運ばなければならない。道もないアラスカでは、パイプラインの建設がもっとも現実的だ。ところが、パイプラインは総延長が長いため、様々な課題を抱えていた。
 特に大きな争点となったのが、アラスカ原住民が権利を主張していた土地を横断しなければならないことだ。油田を開発するためには、この原住民の権利の認定、すなわち、権利をどの範囲で認め、どのように清算するか、という問題が避けて通れなかった。
 こうして、1971年にアラスカ原住民法(Alaska Native Claims Settlement Act: ANCSA)が成立した。この法律により、原住民の主張していた権利が認められ、原住民の団体に対し、4,400万エーカー(約1,780万へクタール)の土地と9億6,250万ドルの資金が提供されることとなった。
 また、この法律には、土壇場でいくつかの条項が追加されていた。そのひとつが、残された公有地の配分の決定に関する条項だった。この条項に基づき、連邦政府は1978年までに公有地の配分を決定しなければならなくなった。
 公有地の配分で焦点になったのが、資源開発を禁止または抑制する保護区の設立だった。当時政権を握っていたカーター大統領が、環境や人権・福祉については、一般的に共和党より積極的な政策を取る民主党出身だったことに加えて、1970年代に入ると環境保護運動が高まりを見せ、議会もこうした動きを無視することができなくなっていた。
 しかし保護区の設立については、開発派と保護派の主張の隔たりが大きく、議論はなかなか進展しなかった。当時、広大なアラスカには、マウント・マッキンリー国立公園(後のデナリ国立公園)と、3つの国立記念物公園(シトカ(Sitka)、カトマイ、及びグレーシャーベイ)しか存在していなかった。カーター大統領はこうした状況に危惧を抱き、1978年に遺物保存法(Antiquities Act of 1906)に基づいて総面積22万平方キロメートルにおよぶ17の国立記念物公園を設立した。
 この遺物保存法には、大統領が議会の議決を経ずに布告によって公園が設立できる規定がある。ただ、議会軽視の批判もあって、その規定の適用には大きなリスクが伴う。
 カーター大統領の決断は、「おそらく、この法律に署名したテオドア・ルーズベルト大統領すら想像もしなかった規模」のものであった。つまり、この規定をこうした広大な自然地の保護のために、緊急避難的に適用することは前例がなかったのだ。この決断については賛否両論あったものの、結果として、アラスカの自然地の多くが保護区として守られることになったという意味では英断だったのではないだろうか。これは、地域開発や産業界の利害に敏感な共和党政権ではなく、リベラルで自然保護区の設立に前向きな民主党政権だからこその快挙ともいえる。
 ところが、こうした思い切った政策を打ち出したカーター大統領に対しては、世論の風当たりも強く、結果として次期大統領選挙に敗れてしまうことになる。次期大統領に選出された共和党出身のレーガン氏は、アラスカについては開発派と考えられていた。カーター政権としては、何としても残された在任期間中に保護区設立を確実なものにしたかった。そんな政権側の足元をみる開発側との攻防は、まさに手に汗握る展開となる。
 こうして、結果的には大幅な妥協を余儀なくされた内容ではあったが、ANILCA法はカーター大統領により1980年12月2日に制定された。この法律によって、4,700万エーカー(約1,900万ヘクタール)の国立公園、国立記念物及び国立保護区、5,380万エーカー(約2,180万ヘクタール)の野生生物保護区、そして350万エーカー(約140万ヘクタール)のレクリエーションエリアと原生河川回廊(コリドー)が新設もしくは拡張された。

 ANILCAによってアラスカの国有地の保護が大きな前進を遂げた一方、同法は、新設された保護区の区域内において、原住民による「伝統的に行われてきた行為(subsistence)」(生活のための狩猟行為等)を容認した。また、北極国立野生生物区域(Arctic National Wildlife Range)では、拡張区域に石油の埋蔵区域が含まれ、その開発の可否はあいまいなままとされていた。その他、同法には大変複雑な規定が多く、その後の保護区管理に様々な混乱を招く結果となった。
 いずれにしろ、この法律により、アメリカに残された「最後のフロンティア」は名実ともに消え失せたが、その多くは国立公園や野生生物保護区などに姿を変えて、将来世代に引き継がれることになった。

 ところで、こうしたカーター大統領の成し遂げたアラスカの保護区設立の功績は大きいはずだが、なぜかそれに関する解説を目にすることはない。その後クリントン大統領が選出されるまで続く共和党政権に遠慮したのか、それとも、こうした痛みを伴う政策は、国民の支持が得られにくいからなのだろうか。いずれにしろ、アラスカの保護区設立という快挙は、もう少しあちこちで称えられてもいいように思える。

○参考3:アラスカ年表(アンカレッジ歴史・美術館「アラスカ展示室資料」などを基に作成)

1648年 ロシアの探検家デゼニエフがベーリング海峡を横断。
1725年 ピョートル大帝の命を受けたデンマーク人ヴィトス・ベーリングがアラスカ沿岸探検に出発。
1740年代 ロシア人による毛皮猟がアリューシャン列島で行われる。
1780年代 毛皮貿易が急成長。
1799年 ロシア・アメリカ商会が設立され、アラスカにおける毛皮貿易を独占。
1840年代 1700年代の初めには約1万人だったアリュート人の人口が、天然痘や虐待、飢餓などにより4千人に減少。密漁や乱獲により毛皮猟が下火となる。
1867年 ロシアがアメリカにアラスカを720万ドルで売却。
1879年 ジョン・ミュアーがアラスカを訪れる。同氏の影響で自然保護の機運が生まれる。
1880年 現在のジュノー近郊で金が発見される。
1898年 クロンダイクゴールドラッシュが起こり、2万人もの人々がアラスカやカナダ西部に押し寄せる。
1914〜1923年 アラスカ鉄道建設。
1942年 日本軍がキスカ島とアッツ島を占領。
1959年 アラスカ州が49番目の州に昇格(それまでは準州)。
1966年 原住民の権利を守るために、連邦政府により土地所有権凍結が言い渡される。
1968年 プルードー湾で大規模な油田が発見される。
1971年 アラスカ原住民請求権解決法(ANCSA)が制定され、これにより4,400万エーカー(約1,780万ヘクタール)の土地と約10億ドルの補償金が原住民に支給される。
1977年 トランスアラスカ石油パイプラインが完成。
1978年 カーター大統領により、17箇所の新たな国立記念物が指定され、新たに5,600万エーカー(約2,270万ヘクタール)の土地が保護されることとなった。この指定は、アラスカ重要公有地法(ANILCA)制定まで効力を有していた。
1980年 アラスカ重要国有地保全法(ANILCA)制定。アラスカ州は、連邦所有地のうち1億300万エーカー(約4,170万ヘクタール)を州有地とすることが可能となった。

※今回の原稿執筆には、上岡克己著「アメリカの国立公園」、Walter R. Borneman著「Alaska -Saga of a bold land」を参考にさせていただきました。


<妻のひとこと>

 現地調査に出かける時、宿泊先の手配や荷物の準備などは大抵私の担当でした。今回の訪問地であるアラスカは、観光地としてはとても有名ですが気象条件も厳しいということで、いくつか注意していたことがありました。
 一つ目は、アラスカの観光シーズンは短く、観光客が集中するということです。宿泊先やガイドツアーなどはなるべく早く予約する必要がありました。他の大陸48州に比べて、料金もやはり高目です。また、宿泊先などの予約にも手間取ることがありました。アラスカでは大手チェーンのモーテルなどは少なく、小規模なホテル、個人経営のロッジやB&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)などが多いので、インターネットで予約できないこともありました。そんな時は、電話やFAXでやりとりをしなければなりません。
 二つ目は寒さ対策でした。私たちが訪れたのは9月上旬でしたが、フェアバンクスなどでは雪に見舞われることもありました。室内はセントラルヒーティングでどこも暖かいので、服装は重ね着にしてこまめに調節できるようにしました。早朝、国立公園内で野生生物を観察するような場合には、長い間じっと立ち止まっていなければなりませんので、手や足先の寒さ対策が必要です。手袋も、薄手のものと厚手のものを重ねたり、貼るカイロを足先に貼ったりしました。帽子や耳あても持っていきましたが、とても重宝しました。

 厳しい寒さは電気製品にも影響しました。バッテリーなどは寒さですぐに使えなくなってしまいました。そのため、コートのポケットにカイロを入れ、バッテリーを温めておくとかなり持ちがよくなりました。
 最後は車のガソリンです。アラスカではレンタカーを借りて移動していましたが、市街地以外ではガソリンスタンドが少ないので、早め早めに給油するようにしていました。これだけ大量に石油が出るアラスカですが、税金の高いカリフォルニアと比べてもガソリンの値段が1〜2割くらい高かったのは意外でした。

 ページトップ
page 4/4  123
4

記事・写真:鈴木渉(→プロフィール

[an error occurred while processing this directive]