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アメリカ横断ボランティア紀行(第31話)
国立保全研修所訪問
Issued: 2011.09.09
NCTCの研修プログラムは、「研修コースカタログ」としてウェブサイトで公表されている。研修部門には、魚類(fish)、野生生物(wildlife)、保全(conservation)、技術(technical)、管理(leadership and employee management)の5つの部門が設けられており、それぞれ様々なプログラムが用意されているという。 「これらの研修には、FWSをはじめとする政府職員以外に、民間団体、海外などからも参加があります。幅広い人々が、野生生物資源の保全に関する理解を深めてもらうことが目標です」 研修プログラムの実施についても新しい技術を最大限に活用しているという。 「印刷物は重い上に、研修に参加していない人たちと共有することが困難です。私たちは、印刷物にも必ずCD-ROMを添付しています。こうして電子化しておくと、印刷した資料を持っていなくても、必要に応じて情報をダウンロードして使用することができます」
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こうした研修資料を充実することには他のねらいもあるという。
「保全の研修はあまりにも分野が広いため、すべての分野について研修プログラムを組むことはできません。また、保全の分野では、GISの知識、コンピューターの活用など、常に新しい技術の習得が必要です」
保全研修所では、野生のサケ類を養殖場で孵化した個体と区別するための保全遺伝学など、専門的な研究についても研修を行っているそうだ。
「NCTCは職員数も少ないために、なるべく講義ベースではない方法により研修を行うことに取り組んでいます。ブロードバンド接続のある野生生物保護区や地域事務所では、より多くのウェブベースの研修プログラムを提供するようにしています。このような講座は『非講義型研修(non-class room training)』と呼ばれます」
保全に関する問題の解決は、対立する利害を有する関係者が、いかに共通点を見いだすことができるかにかかっているという。また、そうした能力を養成することがこの研修所の大きな目的になっている。
「私たちは知識の伝達よりも、参加者同士のコミュニケーションを重視しているのです。実際の成果としても、参加者同士のコミュニケーションにより得られるものの方が大きいと考えています。ここでは、1〜2週間の講義の約半分は、参加者によるディスカッションの時間に費やされます」
研修中、講義室以外でコミュニケーションを図る場所の確保にも気を遣っている。また、そうした環境に対する要望も高くなっているという。
「宿舎には個室の他に談話室を設けています。参加者間の親交を深める場として機能しています」
食堂にも工夫があるという。
「多人数を収容することのできる食堂は、コミュニケーションの上でも重要な場所です。天井には、吸音効果を高めるため細かい横木をはめ込んでいます。これにより、食事中の会話がしやすくなっています」
確かに、居酒屋などうるさい場所では、ついつい大声を出してしまう。話の内容も単純になるし、全員で同じ話題を共有することができない。食堂は、まるで小規模なコンサートホールのように、とても静かな印象を受ける。天井の音の反射を抑えることにより、静かな雰囲気が保てるというのだ。
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食後にも会話が続けられるよう、バーやラウンジも併設されている。何ともうらやましい話だ。
「保全の問題を巡っては、多くの人々の利害が対立しています。利害や目的が異なる集団同士がいかに共存するか、意見の一致する点を見つけようと努力できるかどうかが重要だと思います。研修所として今後進めていかなければならないことは、専門的な教育よりも、むしろこのような妥協点や接点を見つけだすための能力や考え方だと考えています」
そのために教材を電子化し、できるだけ講義のための時間を省く。そして異分野とのコミュニケーションを学ぶための時間を確保している。
また、ここで忘れてはならないのは、魚類野生生物局の保全政策が、地域住民、NGO、民間企業との協力抜きには語ることができないということだろう。
「保全イーズメント【2】を効果的に実施するためには、いかに早くその土地を取得するかが鍵になります」
政府の予算プロセスは複雑で、土地所有者が売却したいタイミングと政府の土地の買い入れのタイミングとが合わないことが多い。政府の直接買い入れでは、どうしても民間デベロッパーに遅れをとってしまう。
「そこで、NGOが土地を先行買収するケースがあります。購入した土地は、後で政府が買い戻すのです」
以前は保護政策に反対していたような山林所有者も、最近は山林を売りたがっているという。
「木材の輸入量が増加し、山林の価値が低下しているのです。1960年代、70年代には様々な環境関係の法律が制定され、規制によって森を守っていこうとしてきましたが、現在は対立ではなく協力によって保全を実現していくことができる時代といえるのではないでしょうか」
こうした特長は、土地を確保し、厳しい規制権限を持つ国立公園局とは大きく異なる点だ。
レモン所長はさらに続ける。
「経済的な発展にしても、このペースではいずれ近い将来に行き詰まるでしょう。ゴミを埋める場所も少なくなり、エネルギーも枯渇しようとしています。私たちの生活を支える環境容量(carrying capacity)がどんどん小さくなってきています」
そして、アメリカの人々も、昔、自然に頼っていた生活に戻らざるを得ないと指摘する。
「自然と調和した生活様式に移行することは容易ではありません。ただ、保全というものを持続可能な形で実現するためには、避けて通れない道だと思います」
所長のインタビューのあと、センター内の主要な部署を案内していただいた。まず訪問したのがメディア(AV)部門だった。
メディア部門には映像制作のためのスタジオが設置されている。国立公園局のマザー研修所が実施している遠隔地研修システム(TELプログラム)も、この施設を使っているということだ。スタジオには編集設備が付属しており、6名の技術者が勤務しているという。そのうち3名は映像担当だ。
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スタジオでは、魚類野生生物局と各国立野生生物保護区のための研修ビデオや一般来訪者向けの映像教材を作成している。1本あたり500本以上をコピーする場合には外注するが、それ以外はすべて自前で複製するそうだ。VHSであれば、汎用のビデオデッキを用いたダビング装置により一度に15本ダビングできる。汎用型のケースにカラー印刷したラベルを挿入して、外箱への印刷経費を節約している。言われてみなければわからないほどの完成度の高さだ。やはり専門のデザイナーが勤務している強みはこういうところにも現れている。
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レイチェル・カーソンが使用していた拡大鏡
レイチェル・カーソンが担当した「conservation in action」シリーズ
(ミュージアム)
保全研修所には付属のミュージアム(小規模な博物展示施設)がある。室内に入ってみると、雰囲気は倉庫のようだったが、専属の学芸員が数名勤務する本格的なものだ。クマの剥製や書類などが室内のいたるところに展示してある。キャビネットの中にもぎっしり資料が詰まっている。中国風の不思議な彫刻のようなものが多い。
「これは、空港で没収された象牙類です」
FWSは、ワシントン条約関係の輸入規制も担当しており、空港での輸出入の取り締まりも業務の一つだ。没収した禁輸品の一部が広報用に展示されているそうだ。
「これも大切な展示品なんです」
学芸員が大振りな拡大鏡を持ってきてくれた。聞くとレイチェル・カーソンが使用していたものだという。
「事務用品も国の財産なので、彼女がFWSを去る時に置いていったのです」
レイチェル・カーソンは、水生生物学者としてFWSの前身である漁業局に採用された。当時は女性がカーソン氏を入れて2名しかいなかったそうだ。さらに驚くべきことに、女性蔑視や迷信がまだ強く残っており、女性は調査船にも乗れなかったという。水生生物学者でありながら船に乗れないということは、彼女の専門家としての将来を絶望的なものとしたことだろう。
ところが、この障壁が思わぬ方向に彼女を導くことになった。
「そこで、彼女は調査結果を分析し、文章化するエディター(執筆者)の業務を担当することになったのです」
彼女はFWSにいる間、保全や野生生物の必要性を広く一般の人々に伝えるため、精力的に執筆活動を行ったという。
「『沈黙の春』はあまりにも有名ですが、彼女がFWS職員時代に担当した、『conservation in action(動き出す保全活動)』は、1960年代以降大きな盛り上がりを見せた保全活動に、かなり早い段階から着目し、発信していたということでしょう」
この冊子のシリーズは訪問当時もFWSのウェブサイトで公開されていた(現在はリンクが切れているが、FWSデジタルライブラリーからダウンロードが可能)。専門的なFWSの野生生物の保全活動をわかりやすく表現したはじめての取組といえる。このほかにも彼女は様々な雑誌などの記事に登場し、保全活動の大切さを直接国民に訴えかけるメッセンジャーとしての役割を果たすことになった。
レイチェルカーションから寄贈されたという「沈黙の春」の初版本
「1945年、新たな殺虫剤としてDDTが発売されました。カーソンを含め、生物学者の中には生態系への影響を危惧する者も少なくありませんでした。ただそれを表明することで、農薬を製造している企業からは強い反発が起こることも予想されました」
レイチェル・カーソンもそのような専門家のひとりだった。誰かがその危険性を訴えなければならない。だが、それには大きなリスクが伴う。農薬を製造販売する巨大企業の反発は、様々な形でFWSにも及ぶだろう。
「それでも彼女は、DDTの危険性を訴えることを決心したのです」
レイチェル・カーソンは比較的広い農地や資産を持っており、仮に辞職に追い込まれても自分ひとりが食べていくには困らない状況にあった。周囲の男性職員の多くにはそうした財産がなく、養うべき家族もいる。残念ながらそのようなリスクは犯すことはできない。FWSの上司にも相談したものの、組織にも様々な政治的圧力がかかっており、彼女を支えることはできない、という回答が返ってきたという。
こうして、1952年、レイチェル・カーソンはFWSを辞職し、執筆活動に専念することとなる。そして1962年、ついに『沈黙の春』の出版に成功した【3】。
1935年:漁業局臨時職員として採用
1936年:同初級水系生物学者として採用(当時女性は2人のみ)
1943年:FWS水系生物学者(後にエディター長)
1945年:DDT発売
1952年:辞職
1962年:『沈黙の春』出版。環境保護(conservation)運動が一気に盛り上がる
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1964年:56歳で死去。ウィルダネス法成立
1965年:『センス・オブ・ワンダー』出版
1967年:大気浄化法(Clean Air Act)成立
1969年:国家環境政策法(NEPA)成立
1970年:環境保護庁(EPA)創設
1973年:絶滅危惧種法成立
1978年:レッドウッド国立公園拡張
1980年:アラスカ重要国有地保全法成立
(環境保全活動)
レイチェル・カーソンは1964年に没してしまったが、彼女の著書『沈黙の春』はアメリカ、そして全世界の環境保全活動に大きなうねりを巻き起こした。急速な化学工業の発達に、汚染物処理対策が追いつかず、多くの先進工業国において公害問題が発生してしまっていた状況とも重なる。
当時の政権党であった共和党もそのような動きを無視できず、大気浄化法(Clean Air Act)や国家環境政策法(NEPA)などの歴史的な法律を次々と打ち出していくこととなった。
彼女の勇気ある行動がなければ、『沈黙の春』は出版されず、環境保全対策もさらに遅れ、これほどの力を持つことはなかったかもしれない。
FWSは、レイチェル・カーソンが組織を去らなければこうした画期的な著述ができなかったことを反省し、こうした業績をたたえ記念するための保護区を設立している。
マザー研修所にインタビューにお邪魔してから魚類野生生物局の国立保全研修所(NCTC)まで、1週間弱も同じホテルに泊まっていました。保全研修所のインタビューを終えて、私たちはいよいよ最後の研修地、ワシントンDCに向かうことになりました。新しいホテルは部屋も広く、朝食も充実していました。たまっていた洗濯物もようやく片付きました。
研修所からワシントンDCへはインターステートを利用しなくても2時間弱の距離でした。来るときに経験したこのあたりのインターステートの混雑とスピードを思い出し、私たちはゆっくり普通の道路を通ることにしました。
研修所を出てしばらく丘陵地帯を通るカントリーロードを走ると、あっけなく郊外型の住宅地に入りました。片側2車線のまっすぐな道路を走っていると、あっという間にDC郊外のヴィエナという町に入りました。ここは、1年数ヶ月前にはじめてワシントンDCに来た際に泊めていただいたN書記官のお宅のあるとことです。
Nさんは帰国され、後任のH書記官一家が住んでいました。私たちはHさん宅に泊めていただき、そこから魚類野生生物局が用意してくれるボランティアアパートに入居することになりました。奥様の手料理の日本食と、暖かいもてなしに、徐々に2回目の横断の緊張がほぐれていきました。
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記事・写真:鈴木渉(→プロフィール)