環境を巡る最新の動きや特定のテーマを取り上げ(ピックアップ)て、取材を行い記事としてわかりやすくご紹介しています。
トップページへ
シリーズ・もっと身近に! 生物多様性 ──2010年に向けて(第1回)
『そもそも“生物多様性”って、なに?』
アメリカ横断ボランティア紀行(第11話)
地域を豊にする木質バイオマス
─南西ドイツからの報告─
中国発:竹割り箸の生産地を訪ねる
アメリカ横断ボランティア紀行(第10話)
[an error occurred while processing this directive]
No. アメリカ横断ボランティア紀行(第11話) レッドウッド国立州立公園到着
page 2/4  1
2
34
Issued: 2007.06.28
レッドウッド国立州立公園到着[2]
 「これおもしろいね。樹に窓がついてる」
 公園の区域を出ると、路傍にお土産屋などがある。中には、天然の木のウロを「活用」したものもある。お土産品はレッドウッドを使った木工品が多い。ほとんどが荒削りなものばかりだ。レッドウッドは日本で言えば屋久杉や古代ヒノキのようなものなのだから、うまく加工すれば外国人向けのお土産になりそうでもある。一方で、そのいかにも無骨で素朴な雰囲気は気持ちを和ませてくれる。この近くには、車でレッドウッドの根元をくぐる「ドライブスルートゥリー」などというものもあるそうだ。
 目次
ユーレカ到着
ユーレカ周辺のレッドウッド伐採の歴史
歴史的な町並みと木こり食堂
レッドウッドのウロを活用した「家」。土産物屋のアトラクションとして活躍している。

レッドウッドの丸太を切り抜いて作られた「ワンログハウス」。ワンログハウスの内部。ベッドやキッチンが作りつけられている。
レッドウッドの丸太を切り抜いて作られた「ワンログハウス」。ワンログハウスの内部。ベッドやキッチンが作りつけられている。

ユーレカ到着
 ユーレカにはその日の夕方に到着した。人口約2万6千人(2005年)、かつてレッドウッドの伐採製材業で繁栄した港町だ。となりのアルカタとともにこの地域の中核的な都市である。現在も、道路脇には大きな材木置場や製材された板材の山が点在している。中型のプロペラ機がサンフランシスコやオレゴン州(ポートランド)との間で定期的に運航されている。
 この太平洋に面したカリフォルニア州の北のはずれ(英語ではNorth Coast California)には、1800年台の半ばまでほとんど白人が居住しておらず、ネイティブアメリカンが昔のままの暮らしを営んでいた。その主な理由は、険しい地形と、サンフランシスコからもかなり離れた僻地だったことだ。ところが、ゴールドラッシュが劇的な変化をもたらした。

ユーレカ周辺のレッドウッド伐採の歴史
今も当時の雰囲気を残しているユーレカの港

 1848年、付近に金鉱が発見されるとすぐに集落が形成された。当時はまだ道路がなかったため、人間や物資はユーレカなどの港に船で運搬されたそうだ。ところが、金の埋蔵量は予想よりはるかに少なかったために、その代わりとしてレッドウッドの伐採が開始された。

 1878年「木材及び土石法(Timber and Stone Act)」が成立すると、160エーカー(約0.6平方キロメートル)の国有地が1エーカー当たり2.5ドル(約300円)という格安の値段で払い下げられることになった。これに目をつけたスコットランドのエジンバラ市を拠点とする投資家が、水夫や伐採従事者を動員して所有権を確保し、大規模な伐採を開始した。この方法は米国内の資本家の間にも広がっていった。
 1914年、サンフランシスコまでの陸路が開通すると、伐採の規模は急激に拡大していった。
 こうしたレッドウッドの大規模伐採に危惧を抱いた有志が「レッドウッド保護連盟(Save-the-Redwood League)」を設立、大々的な募金活動が展開され、多くの貴重なレッドウッド林が買収された。これらの森林は、現在カリフォルニア州立公園として保護されている(文末囲みの「レッドウッド国立州立公園の歴史概観」参照)。

 ところが、それ以降も伐採は続き、さらに大規模に、さらに奥地へと進んでいった。上流部での大規模な伐採により、下流域の集落はたびたび洪水に見舞われるようになった。1960年代以降の環境運動の高まりに応じ、1968年にレッドウッド国立公園が設立されたが、伐採業者の強力な圧力などにより公園面積は大幅に縮小され、流域を構成する重要な原生林の多くも区域から除外されてしまった。結局伐採はその後10年間も続き、1978年にレッドウッド国立公園の区域が拡大されたことでようやくその幕を閉じた。その頃までには、港から近く運搬も容易な手ごろな原生林はほぼ切りつくされてしまっており、伐採業自体もすでに廃れていたようだ。伐採業者は、国立公園予定地の原生林を切れるだけ切っておいて、当時最高の市場価格で山林を政府に売払って退却した。
 これらの二次林地帯に入ると、切り損ねて谷底に転がった丸太などが今もそのままに放置されている。ワイヤーやトラックも捨てられ、本当にひどいありさまだ。
 生活の基盤を根こそぎ剥奪されたネイティブアメリカンや、頻発する洪水被害の続いた入植者の集落など含め、この地域には、レッドウッド伐採による負の遺産だけが残されているように見える。

ピーナッツの形に似せたレッドウッドの丸太がレッドウッド国立州立公園に隣接するガソリンスタンドの敷地に横たわっている。レッドウッド国立公園の設立の反対派が抗議のために製作し、首都ワシントンDCまでトレーラーで運搬したものだ。現在も、地元住民の一部には国立公園設立以来のわだかまりが残っている。なお、「ピーナッツ」の形は、レッドウッド国立公園の拡張を事実上決定した当時のカーター大統領が、ピーナッツ栽培農家だったことにちなんでいるそうだ。
ピーナッツの形に似せたレッドウッドの丸太がレッドウッド国立州立公園に隣接するガソリンスタンドの敷地に横たわっている。レッドウッド国立公園の設立の反対派が抗議のために製作し、首都ワシントンDCまでトレーラーで運搬したものだ。現在も、地元住民の一部には国立公園設立以来のわだかまりが残っている。なお、「ピーナッツ」の形は、レッドウッド国立公園の拡張を事実上決定した当時のカーター大統領が、ピーナッツ栽培農家だったことにちなんでいるそうだ。

歴史的な町並みと木こり食堂
ユーレカの歴史地区の中でも威容を誇るのが「カーソン・マンション(CARSON MANSION)」だ。丈夫なレッドウッドで作られた建築物は現在も当時のままの姿を保っている。

 こうして白人の入植からわずか100年余りでレッドウッドの原生林は切り尽くされ、地域の経済は急速に衰退した。あっけなく没落した地域経済が残したものの中には、伐採ブームに沸いた当時のビクトリア調の豪邸のあつまる一角もある。ユーレカ港の近くに当時のままの姿をとどめている、極めて耐久性の高いレッドウッドで建築された木造建築物の並んでいる様は、当時の経済発展の様子を物語っている。

 ところで、このユーレカには、昔ながらの「木こり食堂」が残っている。最盛期には町のあちこちにあったそうだが、現在は観光用の食堂が1軒残るのみだ。一日5,000キロカロリー以上を必要とした伐採労働者の胃袋をすばやく満たすために、すべての料理は大皿に盛られ、おかわりも自由だ。店の一画には伐採用のチェーンソーなどが展示されている。今でもこの町の人々は昔の繁栄の記憶を大切にしている。

 宿泊は隣町のアルカタにした。ちょうどアメリカの祭日(マーティンルーサーキング・デー)と重なっていたため、国立公園管理事務所に行くのは翌日に回し【1】、生活物資や当面の食料を買い込み早めにホテルで休むことにした。
 このカリフォルニア北部沿岸地域は、同じ州とはいえ南部の大都市に比べ貧しい。食料を始め、物価も決して安くはない。町も、林業、製材業同様にあまり活気があるとはいえない。人もどこか控えめで、走っている車に維持費がかさむアメ車はあまり見当たらず、古い小型の日本車が多い。その中で、私たちの99年式の真っ赤なポンティアックはやたらと目立つ。
 町のビジターセンターでもらったガイドによると、この辺りはタラやカサゴ、アイナメ、カニなどが釣れるという。久しぶりに煮付けでも食べたいところだ。→(その3)へ続く

page 2/4  1
2
34
【1】 国立公園管理事務所も国の機関なので土日は閉まっている。職員の勤務も基本的にはカレンダー通りだ。土日や夏休みシーズンに勤務している「レンジャー」は、ビジターサービス部門か取締担当の職員がほとんどであり、シフトを組んで勤務している。
[an error occurred while processing this directive]