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No. アメリカ横断ボランティア紀行(第10話) 大陸横断編・その3
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Issued: 2007.05.17
大陸横断編・その3(アリゾナ州〜ネバダ州〜カリフォルニア州)[4]
 低い峠をいくつか越えるうちに、緑が多くなり、久々の霧に包まれる。太平洋に近くなってきたせいだろうか。時折ぱらつく雨が懐かしい。私たちの緊張も少し和らいできた。
 民家も増えてきた。ここまで、西へ西へと向かってきたが、ここからは進路を北に変え、サンフランシスコを目指して北上する。
 サンフランシスコは、これまでの横断の中で最大の都市だ。高速道路の交通量も増え、道路の両側には大規模な建築物や集約型の農場や畜舎が目に付くようになってきた。
 私たちは混雑を避け、海側のルートを北上する。海岸線に沿った一般道でサンフランシスコに入っていくと、住宅が海岸線の丘陵地帯に張り付くように広がっている。その風景は日本の住宅街を彷彿とさせる。
 サンフランシスコでは、日本人街にあるホテルにゆっくり4日間滞在した。その間に、公用旅券の渡航先追加手続きや物資調達、洗濯、インタビューの整理、JICAへの定期報告書の作成などを済ませてしまうつもりだった。次の研修地レッドウッド国立州立公園にも状況を報告しなければならない。

サンフランシスコの中華街
サンフランシスコの中華街
 目次
「ジャパンタウン」
ゴールデンゲート国立レクリエーション地域
ミュア・ウッズ国立記念物公園
「ジャパンタウン」
 ジャパンタウンと呼ばれる日本人街にあるそのホテルは、久しぶりに造りがしっかりしていた。通路は建物の内部にあり、空調も集中冷暖房で静かだ。何といってもお風呂が日本風だし、ベッドや布団も心地いい。アメリカのモーテルは格安で部屋も広いが、質はそれなりだ。長期間移動を続けていると、その違いが疲労や健康状態に大きく影響してくる。
 部屋で少し休憩してから、すぐ隣の小さなスーパーマーケットに買い物に入る。このスーパーは日本食を扱っており、お惣菜コーナーにはサバの塩焼きがあった。こうした青魚の類は田舎のスーパーではほとんど売られていない。本当にご無沙汰だった。探していた日本の歯磨き粉やハブラシもあった。値段には目をつぶって大量に買い込む。もうこの先レッドウッドに入ったら、こういったものは買えないだろう。ワサビ、海苔巻き用の巻き簾、醤油、酢など2人で両手に抱えきれないほどの「物資」を購入し、今しがた出てきたばかりのホテルに戻る。
 午後、妻はジャパンセンターにある日本人経営の美容院に髪を切りに行った。日本を発ってから美容院に行ったのは1回のみ。以来、私が時々毛先をそろえていたが、さすがにどうしようもなくなっていたようだ。私は部屋で書類や記録の整理、レポートの作成。インターネットの回線も安定していたので溜まっていたメールもすっかり処理することができた。
 夕方は日本食レストランで夕食。
 「このエビフライ美味しいよ。食べてみない?」
 妻に勧められて一本分けてもらう。久しぶりの日本風のフライに頬が落ちそうだった。私の料理も少しおすそ分けしながら、サンフランシスコ到着を二人で祝った。
 ジャパンセンターにはいろいろなテナントが入っていたが、中でも書店には何度も足を運ぶことになった。
 「立ち読みなんて久しぶりだね」
 妻は女性向け雑誌を片っ端から読んでいる。私は、マンガ週刊誌と、散々迷った挙句に、以降、研修中の愛読書となった禅語の本を購入した。「禅」など日本では見向きもしなかったのに、海外だと一つ一つの言葉が心に染みこんでくるのはなぜだろう。
 出発を明日に控えた私たちが行ったのは、サッポロラーメンの店だった。味噌バターラーメンと餃子をたらふく食べた。値段は日本より相当高かったが、サンフランシスコ滞在を締めくくる食事としては申し分ないものだった。

ゴールデンゲート国立レクリエーション地域
 サンフランシスコでは、ゴールデンゲート国立レクリエーション地域(National Recreation Area; NRA)を訪れた。本来であればマンモスケイブ国立公園の次の研修地となるはずだった公園だ(→第2話、第7話参照)。
 ゴールデンゲート国立レクリエーション地域は、サンフランシスコ湾を囲む広大な旧軍用地を公園化したものである。サンフランシスコの有名な観光地であるプレシディオなどの都市公園区域を含む一方、ゴールデンゲートを渡った対岸には自然地域が広がり、ネイチャートレイルも整備されている。
 軍の兵舎や様々な庁舎もそのまま引き継がれているものも多いそうだ。歴史的な建築物は博物展示施設に、実用的な建築物は公園の管理用の施設やビジターセンター、環境教育センターなどに、そして旧兵舎は長期滞在のボランティアのための宿舎に転用されている。立地がいいこともあり、ゴールデンゲートNRAでは環境教育やボランティアプログラムが大変充実している。
 当初の予定では、ここの長期ボランティア宿舎に滞在しながら、北部区域のトレイルメンテナンスに従事することになっていた。
ゴールデンゲート・ブリッジ
ゴールデンゲート・ブリッジ

ミュア・ウッズ国立記念物公園
ミュア・ウッズ国立記念物公園

 ゴールデンゲート国立レクリエーション地域の北部区域に隣接して、ジョン・ミューアを記念して設立された「ミュア・ウッズ国立記念物公園(Muir Woods National Monument)」がある。小さな公園のため、管理はゴールデンゲートの管理事務所に一元化されている。

 この地域はレッドウッドの南限で、公園にはレッドウッドの大木が残されている。私たちはこの生きた化石とも呼ばれるレッドウッドの実物に、初めてここで出会った。かつてサンフランシスコの一帯はレッドウッドの原生林に覆われていたということだが、今や米国でも有数の人口密集地に変わり果ててしまった。現在はこの記念公園に残されたレッドウッドの他には、「パロアルト(スペイン語で「高い木」の意)」や「レッドウッド・シティー」などの地名にその名残をとどめるに過ぎない。それでも、数百年前まではこの霧の大都市もレッドウッドの原生林に覆われていたのだ。

 ジョン・ミューアは、アメリカの国立公園の父とも呼ばれる人物で、いくつかの国立公園の設立に深くかかわったばかりでなく、シエラクラブの創設や、数多くの国立公園を設立したセオドア・ルーズベルト大統領にも大きな影響を与えるなど、アメリカの国立公園制度の創生期に残した功績は計り知れない。また、その自然へのかかわり方もユニークで、同氏が特に好んだシエラネバダ山脈では、羊飼いとして現在のヨセミテ国立公園付近に長い期間滞在したり、そうかと思えばアラスカに渡ってグレーシャー湾を発見したりしている。こうした徹底した現地踏査に裏打ちされた論文や著作が、アメリカにおける自然保護躍進の原動力になったのであろう。
 日本でも、いわゆる「レンジャー」の先達が、国立公園候補地の境界線全てを踏査したという逸話が残っている。こういった国内外の国立公園設立に尽力された人々の熱意と業績に触れる度、「ナショナルパーク(=国立公園)」という制度の素晴らしさとその得難さのようなものを実感させられる。国立公園はもともとそこにあったのではなく、多くの人々の良識と努力により設立され、維持されてきたものなのだ。どうすれば、このような公園本来の意義というものを、風化させずに受け継いでいくことができるのだろうか。ミュア・ウッズ国立記念物公園に残されるレッドウッドの森は、そのような使命を担っているようにも思える。
はじめてレッドウッドと出会った
  ミュア・ウッズの木道。このような曲線がさりげなく出せるのはなぜなのだろうか。
はじめてレッドウッドと出会った ミュア・ウッズの木道。このような曲線がさりげなく出せるのはなぜなのだろうか。
ビジターセンター
ビジターセンター
○ミュア・ウッズ国立記念物公園(国立公園局ホームページ)http://www.nps.gov/muwo/
 1800年代までカリフォルニア州北部海岸地域はレッドウッドに覆われていたが、その後急速に伐採が進んだ。現在のミュア・ウッズ公園の一帯は当時アクセスが悪く、原生林が残されていた。その後篤志家が買い上げ、連邦政府に寄付することにより公園が設立された。
 ジョン・ミューアは、ヨセミテ、セコイヤ、マウントレーニエ、ペトリファイドフォレスト、グランドキャニオンなどの国立公園の制定に携わり、アメリカの「国立公園の父」とも呼ばれる。シエラクラブの創設者でもあり、著書「私たちの国立公園(Our National Parks)」は、ルーズベルト大統領の自然保護政策に大きな影響を及ぼし、それが多くの国立公園、国立記念物公園、そして野生生物保護区の設立につながったといわれている。
 ミュア・ウッズ国立記念物公園は、サンフランシスコ湾周辺では数少ないレッドウッドの原生林を守る公園であるとともに、ジョン・ミューアの名を後世に伝える役割を果たしている。
 なお、カリフォルニア州には、この国立記念物公園とは別に「ジョン・ミューア国立史跡」( http://www.nps.gov/jomu )がある。
ルート66の看板と
ルート66の看板と
<妻からの一言> 「ルート66」

 ルート66は、シカゴとロサンゼルスを結ぶ、昔の主要な幹線道路です。アリゾナ州を走っていると、時折「Route 66」と書いた大きな看板が出てきます。現在の高速道路網のインターステートができる前は、アメリカの東部と西海岸をつなぐ唯一の道路だったそうです。1960年代にはその名も「ルート66」というテレビドラマが人気で、その主題歌もヒットしたそうです。主人が学生時代に英語を勉強したNHKラジオの「英会話」もこのルート66をテーマにしたものだったらしく、しきりと懐かしがっていました。この66号線には博物館まであり、また昔ながらの街並みも残されています。インターステートでの移動に疲れると、しばし昔の町並みを抜けるこの旧道を走り、散歩やピクニックなどを楽しみました。
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記事・写真:鈴木渉(→プロフィール

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