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環境問題にチャレンジするトップリーダーの方々との、ホットな話題についてのインタビューコーナーです。

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エコチャレンジャー

環境問題にチャレンジするトップリーダーの方々との、ホットな話題についてのインタビューコーナーです。

No.086

Issued: 2019.03.20

第86回 IGES北京事務所長・小柳秀明さんに聞く、中国の環境政策の現状とこれまでの進展[1]

実施日時:平成31年2月20日(水)16:00〜
聞き手:一般財団法人環境イノベーション情報機構 理事長 大塚柳太郎

昭和52年に環境庁に入庁し、10か月間に50回もの専門委員会・分科会の開催に携わる

小柳秀明(こやなぎひであき)さん
小柳秀明(こやなぎひであき)さん
IGES(公益財団法人地球環境戦略研究機関)北京事務所所長。
1977年環境庁(当時)入庁、以来約20年間にわたり環境行政全般に従事。1997年にJICA専門家(シニアアドバイザー)として日中友好環境保全センターに派遣され、2000年には中国政府から外国人専門家に贈られる最高の賞である国家友誼奨を授与される。2001年日本へ帰国、環境省で地下水・地盤環境室長、環境情報室長等を歴任。2003年にJICA専門家(環境モデル都市構想推進個別派遣専門家)として再び中国に派遣される。2004年、JICA日中友好環境保全センタープロジェクトフェーズIIIチーフアドバイザーに異動。2006年4月よりIGES北京事務所開設準備室長。同年7月から現職。

大塚理事長(以下、大塚)― 今回のエコチャレンジャーには、長年にわたり中国の環境に深く関わっておられる小柳秀明さんにお出ましいただきました。日本人にとって中国は近くて遠い国という面があり、中国の環境の現状や中国の人びとの環境認識について十分に理解していないように感じています。本日は、基本的なことを含めてお伺いしますので、小柳さんの経験談などを交えてお話しいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
さっそくですが、小柳さんが中国で仕事を始められた当時の日本および中国の状況について、自己紹介を兼ねてお話しいただきたいと思います。

小柳さん― 私が当時の環境庁に入庁したのは、昭和52年(1977年)ですので、もう42年も前になります。当時の日本の環境がどのような状況だったかと申しますと、昭和30年代の高度経済成長を契機に日本の公害が顕著になり、昭和40年代に入って徐々に公害対策に力が入れられ、40年代半ばが日本の公害行政にとってもっとも進展した時だったと思います。ところが、そうした追い風が一段落し、またオイルショックなどもあったことで、昭和50年代に入ると、むしろ公害対策に逆風と言いますか、反動が出始めた頃でした。
私が最初に配属されたのは、当時の大気保全局の企画課で、大気の環境基準を担当する部署でした。二酸化窒素(NO2)にかかわる環境基準が定められたのは、昭和48年(1973年)のことでしたが、当時、世界で最も厳しいといわれた「1時間値の1日平均値0.02ppm以下」というものでした。今申し上げたように、日本では逆風が吹き始めていましたから、産業界等からこの基準は厳しすぎるとも言われていた時代です。
私が入庁してすぐに、当時の公害対策審議会(現在の中央環境審議会の前身)の中に、NO2の環境基準の判定条件等を検討する専門委員会が設置され、その委員会を担当することになりました。

大塚― 大抜擢だったのですね。

小柳さん― ふりかえりますと、10か月の間に50回もの専門委員会・分科会の開催に携わることになりました。委員会の事務作業をすべて私一人でこなしたわけです。開催通知を出し、会議室を確保し、資料を用意し、お茶を出し、それから議事録もとりました。とても大変でした。
情報公開等もない時代で、委員の方も喧々諤々の本音ベースで議論をされた時代です。2時間から3時間の予定の会議が、5時間から6時間、時には10時間にもなって、委員の中には帰れない方も出るという、それくらい激しい議論がなされた委員会でした。

大塚― 日本の環境行政のまさに礎石となったわけですね。

小柳さん― 最初にきつい仕事をすると、後の仕事は何をやっても楽に感じます。当時、入庁したてで何も分からない時にこうした仕事に携われたのはとてもいい経験になりました。


“環境問題のデパート”に対して、中国がどんな対応をしていくのかが、中国にかかわるスタートだった

大塚― いい経験をされたわけですね。中国の状況はいかがでしたか。

小柳さん― 環境行政に携わる人間として、少し残念だったのは、日本の公害対策の最も重要な時期に参加できなかったことです。日本は中国よりも先に発展し、先に対策を経験し、私が入った頃から激化したものを徐々によくしていくという時期だったのです。
一方、私が中国にかかわり始めたのは入庁後20年ほど経ってからでした。この頃、中国はちょうど経済発展の時でした。公害も非常に激しく、また十分な対策がとられていない時代でもありました。日本では経験できなかったことを、中国の現場で経験できたとともに、日本の環境庁で20年間経験してきたことを生かすチャンスでもあったと思います。

大塚― それ以前は、中国にかかわることはなかったのでしょうか。

小柳さん― はい。中国には初めての訪問でした。その時の中国の環境の状況を、私は「中国は環境問題のデパート」と呼びました。これは私の造語ですが、大気汚染や水質汚濁はもちろん、廃棄物の問題、砂漠化の問題などいろいろな問題があり、品揃えが豊富ということです。しかも、そのスケールが大きいのです。
そんな“環境問題のデパート”に対して、中国がどんな対応をしていくのかが、私にとって中国にかかわるスタートでした。

大塚― 私もその頃中国に行ったことがありますが、もくもくと煙が出ている工場もたくさん見ましたし、深刻な状況だったと思います。

小柳さん― もう10年近く前になりますが、私が中国で勤務するようになって10年目ぐらいの節目に、当時の経験をもとに出した本のタイトルが、『環境問題のデパート中国』(蒼蒼社、2010年4月発行)でした。今はもうまったく変わっていますが、当時はそうした状況だったのです。

大塚― 平成9年(1997年)に初めて中国に行かれたとき、JICAの専門家という立場だったのですか。

小柳さん― そうです。環境庁からの出向でした。
ちょうどその前年の平成8年(1996年)に、JICAが中国との大型技術協力として、日中友好環境保全センタープロジェクトをスタートしており、私は環境庁から派遣される2代目の専門家として赴任したのです。前任の方が1年間勤めた後、私はプロジェクト終了までの3年半従事しました。

JICA専門家時代に実施した黄砂発生源の地上データ収集調査
JICA専門家時代に実施した黄砂発生源の地上データ収集調査

モンゴルでも黄砂発生源について調査を実施
モンゴルでも黄砂発生源について調査を実施

砂漠の砂の飛散防止対策(甘粛省)
砂漠の砂の飛散防止対策(甘粛省)

砂漠の緑化に協力する牧民
砂漠の緑化に協力する牧民


必ずしも実施は伴わなかったものの、思想的には非常に斬新な内容が含まれていた

大塚― 中国では、その頃から市場経済的な要素もみられ、経済が躍進するスタート台に立っていた気がします。中国の経済と環境について小柳さんはどう感じられましたか。

小柳さん― 中国の環境問題への取り組みは遅れていると思われている方が多いかもしれませんが、実は意外にも、取り組みが始まった時期は、日本とあまり変わらないのです。
私も赴任してから調べたのですが、1972年にストックホルムで国連人間環境会議が開かれたとき、中国も代表団を送っており、そこで環境問題の重要性が認識されました。翌1973年には、当時の周恩来総理(首相)の主導で、初めての「全国環境保護会議」が開催されています。これは、中国全土から代表を集め、総理も出席して、なんと15日間近くかけてさまざまな議論をしています。この会議の後に、国務院(日本の内閣に相当)の中に環境保護関係の組織が作られました。日本で公害対策本部ができたのが昭和45年(1970年)でしたから、3年の違いしかありません。ただ、その後に大きく差がついたのですが。

大塚― 周恩来総理が音頭をとった「環境保護会議」では、どんなことが議題にあがったのでしょうか。日本の公害対策の初期の頃のように、大気汚染や水質汚濁に関連する内容だったのでしょうか。

小柳さん― 詳しい内容は記録に残っていないのですが、各組織の幹部が参加して、分科会等に分かれて議論されたようです。恐らくその中で、環境保護関係の組織をきちんと作る必要があることも議論されたのではないかと私は推察しています。
ただ、組織を立ち上げたものの、その後の動きは日本に比べ緩慢でした。経済発展が遅れていたことも影響したのではないかと思います。日本で公害対策基本法が制定されたのは昭和42年(1967年)でしたが、中国で同様な法律に当たる環境保護法ができたのは1979年、日本より一まわり遅れた12年後のことでした。それでも、こうした法律ができたこと自体は一つの進展だったと思います。

大塚― 経済成長に比べ、環境への配慮は遅れる傾向があると思いますが、小柳さんが中国で仕事を始められた頃、環境保護法はどのように扱われていたのでしょうか。

小柳さん― 環境保護法は1979年にできましたが、かっこ書きで「試行」と付いていて、本施行ではなかったのです。そのまま10年間「試行」されまして、必ずしも本格的な実施が伴ってはいませんでした。ただ、非常に斬新な内容が含まれていたのも事実です。それが、今の中国の環境保護税の基になった汚染物質排出賦課金制度です。1979年の法律の中で、すでにそうした制度が取り入れられていたのですよ。
また、アセスメントの前身となる制度も、三同時制度と呼ばれるのですが、この法律の中で、建設プロジェクト本体の実施時に、環境汚染対策施設についても計画設計、工事施工、そして稼働の3段階で同時に対応することが定められていました。
先ほど、第1回の全国環境保護会議が1973年に開かれたと申し上げましたが、第2回はいつ開かれたのかというと、実は10年後の1983年のことでした。ここで非常に重要な決定がなされ、「環境保護は国家の基本的な国策の一つ」と謳われているのです。このように、思想的には非常に重要な取り決めがなされていました。


中国のスローガンには、なぞかけのようなところがあり、明確な定義があるようで実はない

大塚― 小柳さんがご自身の目で見た、中国の大気や水質、化学物質など、いわゆる身の回りの環境についてどのような変化がありましたか。

小柳さん― 過去40年ほどをざっくりと振り返ってみたいと思います。先ほど、1973年頃から環境の意識が高まりはじめ、組織等もできていき、法律も整備されてきたと申し上げましたが、実際のところはやはりまだ経済発展が低いレベルだったため、経済成長がどうしても優先されました。中国で有名な言葉がありまして、「先に汚染、後から対策」というものです。そうした時代が1990年代末、21世紀に入る頃までずっと続きました。経済発展優先で、年平均で約10%の経済成長を続けていた時代でした。
大きな節目が21世紀に入ったときに訪れます。“成長の限界”が中国でも意識されるようになり、“持続可能な発展”という有名な言葉を、中国の中央政府が強く意識するようになったのです。
中国では5年に一度大きな共産党大会があります。そこで国の発展の大きな方針を出すわけですが、2002年の党大会の時に、20年間で4倍の経済成長をする方針を決定しました。その時に同時に心配されたのが、このままの勢いで経済成長が続くと、第一に汚染物質や廃棄物を受け入れる環境の容量がなくなるのではないかということでした。加えて、中国の資源が枯渇していくのではないかも強く意識されるようになりました。
ちょうど1990年代の終わりから21世紀初頭にかけて、ドイツで循環経済・廃棄物法ができ、日本でも循環型社会形成の動きが出ており、こうしたドイツや日本の取り組みにも学びながら、持続可能な発展を考えていかなければならないと、党全体が意識する大きな変化がありました。

大塚― 中国の国全体への波及はどうだったのでしょうか。

小柳さん― 1973年から30年近くかかってやっとここまで到達したわけですが、この頃から環境に対する意識の変化は早くなりました。次の5か年計画が作られた2006年には、成長の限界や環境容量を意識して、汚染物質の排出総量規制を本気でしなくてはならないという意識が高まりました。
具体的には、大気中のSO2(二酸化硫黄)と水中のCOD(化学的酸素要求量)に対する10%の総量削減が国務院の5か年計画の目標として初めて掲げられました。それまでは、環境保護部門が同様の目標を掲げていたのですが──このことを日本でたとえると、環境庁(環境省)の決定だけで他省庁は必ずしも重視しないような状況だったのですが──国務院の計画という日本での閣議決定にあたることがなされ、国全体として目標達成に向けて動き出すことになりました。
この時に、経済発展と環境保護は同時に進めなければならないという方針を温家宝総理自らが打ち出しました。これもまた一つの転機でした。
その次に、現国家主席・総書記の習近平さんが2012年の党大会で総書記に就いてから──それまでにも言われていた言葉ではあるのですが──、「生態文明の建設」ということを非常に重視するようになりました。

大塚― 小柳さんには毎年、EICネットのPick Up!コーナーで中国環境事情についてご寄稿いただいています。最新の寄稿で、日本の環境白書に相当する「中国環境状況公報」が、2017年版から、「生態」の2文字が加わり「中国生態環境状況公報」になったと紹介されています。具体的にどんな変化があったのでしょうか。

小柳さん― 中国のスローガンには、なぞかけのようなところがあり、明確な定義があるようで実はないのです。概念として打ち出して、それを各々が深く学習し、各々の分野でどういった行動をとることが生態文明の建設へ近づくのかを思想学習する、そんな儒教的なところがあります。孔子の言った言葉を弟子がどう解釈するかというようなものです。習近平さんの前の胡錦濤さんも、科学的発展観という言葉を用い、各職場において科学的発展観を導入するとはどういうことか、学習レポートを書かせました。

大塚― ヨーロッパ流の考え方に比べ、アジアの発想は何か意味深ですね。

小柳さん― この場合の「生態」はエコロジーとは少し異なる、中国独特の概念として打ち出されたのでしょう。

富栄養化で真緑と化した水源地の湖(雲南省・デン池)
富栄養化で真緑と化した水源地の湖(雲南省・デン池)

長江へ流れ出す工場からの汚染水(2004年重慶市)
長江へ流れ出す工場からの汚染水(2004年重慶市)


中国はまだまだ汚染の程度が激しいため絶えず法律のグレードアップが要求され、結果、より完璧なものになってきた

大塚― 5年から10年という単位で状況は大きく変わってきているわけですね。小柳さんは、2010年前後から中国政府が環境問題への自信を深めたとおっしゃっていますが、この点について少しご説明いただけますか。

小柳さん― 今の中国の環境関連の法律体系を見ますと、日本よりも進んでいると思います。日本は古来、遣唐使などを派遣して、中国の律令制度を勉強してきたように、当時から中国は法律作りの面で進んでいました。環境関係の制度についても、日本の制度やヨーロッパの制度を勉強してきて、今では中国の国情に合った、完璧な制度ができあがっています。法の施行の細かな部分ではさまざまな問題があると思いますが、制度としては非常に体系立っていて、さらにそれに実が伴ってきています。
先ほど申し上げたように、1979年に環境保護法ができた当時、すでに汚染物質排出賦課金徴収を制度化していましたが、実際には徴収することができませんでした。ただ、その後徐々に制度を整備して、はじめの頃はお金さえ払えば汚染物質をいくらでも出して構わないと捉えられていたところに、そうではなく環境対策をきちんとすれば賦課金が減る仕組みなどを導入し、充実させていきました。

大塚― 試行錯誤を経て完成されてきているのですね。

小柳さん― 日本では、昭和40年代に環境関連の法律が整備され、みなさんがまじめに対策を行い、基準をクリアできるようになってきました。環境がよくなっていったことで、さらに法制度や基準を厳しくしなくてはというニーズはそれほどなくなってしまったと言えます。それに対して、中国はまだまだ汚染の程度が激しいですから、絶えず法律や基準のグレードアップというか改正が要求されるのです。そうして、より完璧なものになってきたといえます。

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